山尾庸三とは——長州ファイブの「工学の父」が、耳の聞こえない人の学校をつくろうとした理由

グラスゴーの造船所で、職人たちの様子を見つめる若き日の山尾庸三(イメージイラスト)

長州ファイブの一人、山尾庸三(やまお・ようぞう)。伊藤博文や井上馨にくらべると名前を知る人は少ないのですが、工部省と工部大学校(いまの東京大学工学部の前身)をつくり、「日本の工学の父」と呼ばれる人物です。そしてもう一つ、耳の聞こえない人、目の見えない人のための学校づくりにも力を尽くしました。

この記事では、攘夷の志士として刀を振るった青年が、イギリスの造船所で何を見て、明治の日本に何を残したのかを順にたどります。

目次

周防の二島に生まれ、江戸と箱館で学びました

山尾庸三は天保八年(1837年)、周防国吉敷郡二島村、いまの山口市秋穂二島に生まれました。十代で江戸に出て桂小五郎(のちの木戸孝允)に学び、安政三年(1856年)には斎藤弥九郎の剣術道場・練兵館に入っています。

文久元年(1861年)には、幕府の船・亀田丸に乗ってアムール川流域の視察に加わりました。その後は箱館にとどまり、五稜郭を設計した洋学者・武田斐三郎のもとで学んでいます。外国の技術に早くから触れていたことが、のちの留学につながりました。

攘夷の刃——英国公使館焼き討ちと塙忠宝

ただ、この時期の山尾は、まだ過激な攘夷派の一人でした。文久二年(1862年)十二月十二日、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔(博文)らとともに、品川御殿山に建設中だった英国公使館の焼き討ちに加わっています。

その九日後の十二月二十一日、国学者・塙保己一の子で幕府の和学講談所に勤めていた塙忠宝(はなわ・ただとみ)が、帰宅途中に襲われ、翌二十二日に亡くなりました。忠宝が「孝明天皇を退位させるための先例を調べている」という噂が流れていたためですが、実際には幕府の命で外国人を迎える儀礼を調べていただけだったとされます。

この襲撃は、伊藤博文と山尾庸三によるものだと伝えられています。大正十年(1921年)の忠宝六十年祭で渋沢栄一が語ったほか、田中光顕が伊藤本人から聞いたという記録などが残っています。

1863年、五人は横浜からイギリスへ密航しました

文久三年五月、夜の横浜で小舟から外国船に乗り込む五人(イメージ)
文久三年五月、夜の横浜で小舟から外国船に乗り込む五人(イメージ)

攘夷を掲げる長州藩は、その一方で、西洋の技術を学ばせるために若者を送り出す準備も進めていました。文久三年(1863年)四月、井上聞多(馨)・山尾庸三・野村弥吉(井上勝)の三人が藩から洋行の許可を得て、のちに伊藤俊輔と遠藤謹助が加わります。

問題は費用でした。イギリス総領事に相談すると、五人分で五千両が必要だとわかります。藩から出たのは六百両ほどで、足りない分は江戸藩邸が銃砲を買うために用意していた資金から借りて工面しました。

同年五月十二日の夜、五人はジャーディン・マセソン商会の船で横浜をひそかに出港し、上海で二組に分かれてロンドンへ向かいました。当時、日本人の海外渡航は禁じられていたので、見つかれば死罪もありうる密航です。これがのちに「長州ファイブ(長州五傑)」と呼ばれる五人です。

二人が帰り、山尾はグラスゴーへ向かいました

ロンドンに着いた五人は、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの世話になり、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で学びはじめます。山尾と遠藤は、二年で優秀な成績をおさめました。

ロンドンのテムズ川沿いに立つ長州ファイブの五人(イメージ)
ロンドンのテムズ川沿いに立つ長州ファイブの五人(イメージ)

ところが元治元年(1864年)、伊藤と井上馨は、長州藩が四か国の連合艦隊から攻撃されそうだと知り、わずか半年ほどで帰国します。残った三人のうち、山尾は造船を学ぶため、スコットランドの工業都市グラスゴーへ移りました。

ロンドンの下宿で長州の危機を知り、帰国を決める伊藤と井上馨(イメージ)
ロンドンの下宿で長州の危機を知り、帰国を決める伊藤と井上馨(イメージ)

グラスゴーでは、昼はネピア造船所で見習い工として働き、夜はアンダーソン・カレッジ(いまのストラスクライド大学の前身)の夜間講座で学びました。滞在費に困った山尾に、同じころイギリスに来ていた薩摩藩の留学生たちが一人一ポンドずつ出しあって援助した、という話も伝わっています。敵対していた長州と薩摩の若者が、異国では助けあっていたわけです。

造船所で見た、手で話す職人たち

グラスゴーの造船所で、働く職人たちを見つめる若き日の山尾庸三(イメージイラスト)
グラスゴーの造船所で働く職人たちを見つめる山尾庸三(イメージ)

山尾がグラスゴーの造船所で見たものの中に、のちの人生を大きく決めた光景がありました。図面を引く人や大工、鉄工として働く職人の中に、耳の聞こえない人たちがいて、手話で意思を伝えながら、ほかの職人と同じように仕事をしていたのです。

当時の日本では、目や耳が不自由な人が学ぶ場所はほとんどありませんでした。教育を受ければ、障害があっても技術を身につけて働ける。山尾はこのことを、造船所の現場で目にしたのでした。

帰国後は工部省と工学寮をつくりました

明治元年(1868年)に帰国した山尾は、まず横須賀製鉄所の担当となります。明治三年(1870年)には伊藤博文とともに工部省の設立に動きました。鉄道・鉱山・造船・電信など、国の工業を一手に引き受ける役所です。

さらに明治四年(1871年)、技術者を育てる学校として工学寮の設置を進め、その責任者となりました。山尾は、いま日本に工業がなくても、人を育てれば、その人が工業を生み出すはずだ、という考えを持っていたと伝えられています。

明治六年(1873年)には、グラスゴー大学で学んだ二十五歳のヘンリー・ダイアーが都検(校長にあたる役)として来日しました。工学寮は明治十年(1877年)に工部大学校となり、のちに東京大学工学部へとつながります。また工部省のもとに置かれた工部美術学校は、東京芸術大学の源流の一つとされています。山尾自身は明治十三年(1880年)に工部卿となり、工部省のトップに立ちました。

盲唖教育——建白書と楽善会訓盲院

工学の仕事と並行して、山尾はグラスゴーで見た光景も忘れていませんでした。明治四年(1871年)、目や耳が不自由な子どものための盲唖学校の設置を求める建白書を政府に出しています。

このときは実現しませんでしたが、明治八年(1875年)、中村正直・津田仙・岸田吟香、イギリス人医師ヘンリー・フォールズらが、盲人教育を目指す団体楽善会をつくります。山尾は翌明治九年(1876年)に入会し、学校の設立に力を注ぎました。

明治十二年(1879年)、東京・築地に校舎が完成し、翌明治十三年(1880年)に楽善会訓盲院が授業を始めます。のちに耳の聞こえない生徒も受け入れて訓盲唖院となり、明治二十年(1887年)には官立の東京盲唖学校になりました。この流れは、いまの筑波大学附属視覚特別支援学校・聴覚特別支援学校に受け継がれています。

山尾は晩年まで聾唖教育に関わり、大正四年(1915年)には日本聾唖協会の総裁に就いています。

十二月二十二日という日付

東京盲唖学校の記念日は十二月二十二日です。これは、若き日の山尾が襲った塙忠宝の命日と同じ月日にあたります(忠宝が亡くなったのは旧暦、記念日は新暦です)。

山尾が、自分が命を奪った学者への償いの気持ちを込めてこの日を選んだのではないか、という見方があります。ただし、それを示す確かな記録は見つかっておらず、真偽はわかっていません。この記事でも、偶然の一致なのか意図したものなのかは決めずに、そういう話が伝わっていることを記しておきます。

政治の表に出ず、静かに近代日本を支えました

その後も山尾は、明治十八年(1885年)に初代の法制局長官、明治二十一年(1888年)には臨時建築局の総裁をつとめ、日比谷や霞が関の官庁街の計画にも関わりました。明治二十年(1887年)には子爵となっています。

官職を退いたあとは、書や漢詩、金魚の飼育を楽しんで暮らし、大正六年(1917年)十二月二十一日、東京の自宅で亡くなりました。八十一歳でした。

工部大学校で教えたヘンリー・ダイアーは、山尾について、政治の歴史ではあまり目立たないが、静かで控えめな態度で、日本を進歩させようとする人々のよき友であった、という趣旨の言葉を残しています。同じ長州ファイブでも、総理大臣になった伊藤とは違う形で、山尾は近代日本の土台をつくった人でした。

長州ファイブの五人と、その後

最後に、五人がそれぞれ何の「父」と呼ばれているかをまとめておきます。

  • 伊藤博文(俊輔)——初代内閣総理大臣。「内閣の父」
  • 井上馨(聞多)——外務卿・外務大臣。「外交の父」
  • 井上勝(野村弥吉)——鉄道の建設を主導。「鉄道の父」
  • 遠藤謹助——大阪の造幣局で貨幣づくりを担う。「造幣の父」
  • 山尾庸三——工部省・工部大学校をつくる。「工学の父」
「鉄道の父」井上勝と蒸気機関車(イメージ)
「鉄道の父」井上勝と蒸気機関車(イメージ)
桜の季節の大阪・造幣局。遠藤謹助の局長時代に「通り抜け」が始まったとされます(イメージ)
桜の季節の大阪・造幣局。遠藤謹助の局長時代に「通り抜け」が始まったとされます(イメージ)

五人がなぜ密航したのか、ロンドンで何を見たのか、帰国後それぞれ何を担ったのかは、「長州ファイブとは」でくわしく紹介しています。ほかの四人については「井上勝とは」「遠藤謹助とは」「伊藤博文と井上馨はなぜ留学を途中でやめたのか」もあわせてどうぞ。

ゆかりの地

山尾庸三生誕地・長州五傑顕彰碑(山口県山口市秋穂二島)——生まれ故郷の二島には、生誕地と、五人の功績をたたえる顕彰碑があります。顕彰碑は平成十五年(2003年)に建てられたもので、その後、近くの市立二島中学校の敷地に移されたという情報もあるため、訪ねる前に山口市などで場所を確かめることをおすすめします。

東京盲唖学校発祥の地、日本点字制定の地の碑(東京都中央区築地4-15-2、市場橋公園)——楽善会訓盲院が開かれた場所に建つ記念碑です。東京メトロ日比谷線・築地駅、都営大江戸線・築地市場駅から近くです。

UCLの顕彰碑(ロンドン)——平成五年(1993年)、五人が学んだユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに顕彰碑が建てられました。

情報源について

この記事は、山口県立山口図書館「明治維新人物調べ方案内 山尾庸三」、国立国会図書館「近代日本人の肖像」、筑波大学附属聴覚特別支援学校・視覚特別支援学校の沿革資料、山口市フィルムコミッションの史跡紹介などをもとにまとめました。塙忠宝の襲撃や記念日の由来については諸説があるため、確かな記録で裏づけられない部分はそのように書いています。

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