遠藤謹助(えんどう きんすけ)は、幕末に密航してイギリスで学んだ「長州ファイブ」の一人です。帰国後は大阪の造幣局で、外国人技術者に頼らず日本人の手で貨幣をつくる体制を整え、「造幣の父」と呼ばれています。
そしてもう一つ、春の大阪の風物詩として知られる造幣局の「桜の通り抜け」を始めたのも、この遠藤謹助でした。五人の中ではあまり名前を知られていない遠藤の生涯を、順にたどります。
長州藩士の家に生まれました
遠藤謹助は天保七年(1836年)、長州藩の大組に属する遠藤彦右衛門の次男として生まれました。井上聞多(馨)と同じ1836年の生まれで、この二人が長州ファイブの中の年長組です。
イギリスで、お金をつくる技術を目にしました
文久三年(1863年)、遠藤は井上聞多・伊藤俊輔(博文)・山尾庸三・野村弥吉(井上勝)とともに横浜から密航し、ロンドンへ渡りました。
ロンドンで遠藤が目にしたのは、イングランド銀行の紙幣印刷や造幣の技術でした。国が自分の手で信用できるお金をつくること。その意味を、遠藤はこのとき肌で知ったのでした。
帰国して、通訳として働きました
遠藤は慶応二年(1866年)に帰国しました。長州藩とイギリスとの間で会見が行われた際には、英語のできる遠藤が通訳をつとめています。
外国人に任されていた造幣寮へ
明治維新ののち、遠藤は明治二年(1869年)に大蔵省に入り、翌明治三年(1870年)には大阪の造幣寮(のちの造幣局)の造幣権頭となりました。上司は同じ長州ファイブの井上馨です。
当時の造幣寮では、機械も技術もイギリスから取り入れ、実際の運営はお雇い外国人の首長キンドルが握っていました。日本の貨幣をつくる現場を、外国人が取り仕切っていたのです。
キンドルと対立し、いったん造幣寮を去りました
遠藤は、造幣の技術を日本人が身につけるべきだと考えていました。しかしキンドルとは意見が合わず、明治七年(1874年)、対立の末に造幣寮を去ることになります。その後は大蔵省の役人として働きました。
翌年には、キンドルをはじめとする外国人技術者が解雇されています。遠藤の考えは、結果として受け入れられていったのです。
造幣局長として、日本人だけで貨幣をつくりました
明治十四年(1881年)、遠藤は造幣局長として大阪に戻りました。以後およそ十一年にわたって局長をつとめ、日本人の技術者を育てることに力を注ぎます。そして、日本人だけの手で貨幣をつくる体制を実現させました。「造幣の父」と呼ばれるのはこのためです。
「市民とともに楽しもう」――桜の通り抜け
造幣局の構内には、江戸時代にこの地にあった藤堂藩の蔵屋敷から受け継いだ里桜が植えられていました。
明治十六年(1883年)、遠藤は「市民とともに楽しもうではないか」と提案し、構内の桜並木を一般の人々に開放しました。これが「桜の通り抜け」の始まりです。役所の敷地を市民に開くという発想は、当時としては珍しいものでした。通り抜けはその後も続き、いまでは百を超える品種の桜が咲く、大阪の春を代表する行事になっています。
晩年
遠藤は局長を退いたのち、明治二十六年(1893年)に病で亡くなりました。五十八歳でした。
伊藤博文や井上馨のように政治の表舞台に立つことはありませんでした。しかし、日本人の手で貨幣をつくる仕組みと、市民が楽しむ春の桜並木という二つのものを、今の日本に残しています。
ゆかりの地
- 造幣局(大阪市北区):遠藤が局長をつとめた場所です。春には「桜の通り抜け」が行われます。
- 造幣博物館(造幣局構内):造幣局の歴史や貨幣づくりについて展示しています。
ほかの四人については「長州ファイブとは」の記事でまとめて紹介しています。
情報源について
この記事は、ウィキペディア「遠藤謹助」、山口県立山口図書館「明治維新人物調べかた案内」、造幣局のウェブサイト(桜の通り抜けの歴史)、平成の松下村塾「山口県の先人たち」などを参照して構成しました。

