井上勝とは——長州ファイブの「鉄道の父」は、なぜ日本人だけでトンネルを掘らせたのか

新橋〜横浜間を走る蒸気機関車を線路脇から見つめる井上勝(イメージイラスト)

井上勝(いのうえ まさる)は、幕末に密航してイギリスで学んだ「長州ファイブ」の一人です。帰国後は鉄道の責任者として、明治五年(1872年)の新橋〜横浜間の開業から東海道線の全通まで、日本の鉄道づくりの先頭に立ち続けました。そのため「日本の鉄道の父」と呼ばれています。

この記事では、萩で生まれた少年がロンドンで何を学び、なぜ「日本人の手で鉄道をつくる」ことにこだわったのかをたどります。

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萩に生まれ、野村家の養子になりました

井上勝は天保十四年(1843年)、萩城下で長州藩士・井上勝行の三男として生まれました。五歳のころに藩士・野村作兵衛の養子となり、野村弥吉と名乗ります。

十代のうちから洋学に打ち込み、長崎の海軍伝習所、江戸の蕃書調所、箱館の武田斐三郎の塾などで学びました。武田斐三郎のもとでは、のちに同じく長州ファイブとなる山尾庸三も学んでいます。

ロンドンで鉱山と鉄道を学びました

文久三年(1863年)、野村弥吉は井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)・山尾庸三・遠藤謹助とともに横浜から密航し、ロンドンへ渡りました。密航したとき、弥吉はまだ二十歳前後で、五人の中では最年少でした。

ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で、弥吉は地質学や鉱山学などを学び、優秀な成績を残しています。蒸気機関車が行き交うイギリスの鉄道網も、間近で見続けました。五人の中で最も長くイギリスにとどまり、帰国したのは明治元年(1868年)でした。

鉄道頭として、新橋〜横浜間を開きました

帰国した井上勝は、明治新政府で造幣や鉱山の仕事を経て、明治四年(1871年)に鉱山頭兼鉄道頭となりました。このころから鉄道の建設が本格的に進められていきます。

明治五年(1872年)、新橋〜横浜間に日本で最初の鉄道が開業しました。建設はイギリス人技術者の指導を受けて進められましたが、その現場をまとめたのが井上でした。

日本人だけで、逢坂山トンネルを掘りました

当時の鉄道は、設計も施工も外国人技術者に頼らなければなりませんでした。井上はこの状態を変えようとします。明治十年(1877年)、日本人の鉄道技術者を育てる工技生養成所を設けました。

その成果が表れたのが、京都と大津を結ぶ路線の逢坂山トンネルです。明治十三年(1880年)に完成したこのトンネルは、日本人の技術者だけで掘り上げたものでした。外国人に頼らず、日本人の手で鉄道をつくる。井上が目指した姿が、ここで形になりました。

東海道線を全通させ、鉄道庁長官になりました

その後も井上は鉄道の建設を率い、明治二十二年(1889年)には東京と神戸を結ぶ東海道線が全線開通しました。翌明治二十三年(1890年)には初代の鉄道庁長官に就いています。

井上は、幹線となる鉄道は国が責任を持って建設・運営すべきだと考えていました。私鉄の建設が盛んになる中でも、国による鉄道網の整備を強く主張し続けています。明治二十六年(1893年)、鉄道庁長官を退きました。

小岩井農場と、機関車をつくる会社

鉄道の仕事を離れたあとも、井上の活動は続きました。明治二十四年(1891年)、小野義眞・岩崎弥之助とともに岩手山のふもとに農場を開きます。三人の姓から一字ずつ取って名づけられたのが「小岩井農場」です。

明治二十九年(1896年)には、大阪に汽車製造会社を設立しました。機関車や車両を輸入に頼らず国内でつくるための会社で、ここにも「日本人の手で」という井上の考えが貫かれています。

ロンドンで生涯を終えました

明治四十三年(1910年)、井上は鉄道の視察のためにヨーロッパへ渡り、その途中、若き日に学んだロンドンで亡くなりました。六十六歳でした。遺骨は日本に戻され、東京・品川の東海寺に葬られています。

ゆかりの地

  • 東京駅丸の内駅前広場:井上勝の銅像が立ち、駅舎を見守っています。
  • 東海寺(東京都品川区):井上勝の墓があります。
  • 小岩井農場(岩手県雫石町):名前に「井」の字が残る、井上が創設にかかわった農場です。

ほかの四人については「長州ファイブとは」の記事でまとめて紹介しています。

情報源について

この記事は、ウィキペディア「井上勝」「長州五傑」、山口県立山口図書館「明治維新人物調べ方案内」などを参照して構成しました。

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