| 胡蝶丸 | |||
| 藩名 | 薩摩藩 | ||
| 藩主 | 島津忠義(茂久) | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 150馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

原名「フーキン(福健)」。1862年に建造されました。元治元年(1864年)二月に長崎にて薩摩藩がイギリスより7万5千ドルで購入しました。大坂天保山に駐留し、京都から薩摩国元への交通を行いました。その後、オランダ商人ボードウィンに売却され、1866年、土佐藩がイギリス商人グラバーの仲介で7万ドルで購入しました。
明治三年(1870)、大阪で機関爆発のため沈没しました。
薩摩から土佐へ渡った船です
胡蝶丸は薩摩藩がオランダ商人のボードウィンへ売り、慶応二年に土佐藩がグラバーの仲立ちで七万ドルで買い直しています。薩摩藩が元治元年二月に七万五千ドルで買った船ですから、二年ほどで持ち主が二度変わり、値はほとんど下がらなかったことになります。このころの長崎では、同じ船が藩から商人へ、商人からまた別の藩へと渡っていくことが珍しくありませんでした。当サイトの安行丸も、薩摩藩からボードインを経て大洲藩のいろは丸になった一隻です。
龍馬とお龍が乗ったのは、この船ではありません
寺田屋で襲われた坂本龍馬が、お龍とともに薩摩へ湯治に向かったときの船を胡蝶丸とする記述を見かけることがありますが、往きに乗ったのは三邦丸で、慶応二年三月四日に大坂を出て三月十日に鹿児島へ着いています。帰りは桜島丸でした。この点は当サイトでも以前に改めています。
最期
明治三年、大阪で機関が爆発して沈みました。同じころ豊瑞丸も明治七年に長崎から神戸へ向かう途中で機関が爆発して沈んでおり、買い入れた中古の蒸気船が機関の事故で失われる例は、ほかにもありました。
船は、藩から藩へよく渡りました
胡蝶丸のたどった道筋は、薩摩藩からオランダ商人ボードウィンへ、そこから土佐藩へというものです。こうした転売は例外ではなく、幕末の船ではむしろ普通のことでした。
幕末期の艦船取得を統計的に調べた朴栄濬の研究は、安政元年から明治元年四月までに幕府が六十四隻、諸藩が百二十七隻、合わせて約百九十一隻を取得したとしています。典拠は『明治元年公文類纂』『明治二年公文類纂』に収められた「諸藩ヨリ所有艦船ヲ届出ルモノ」「諸藩艦船記」などです。そしてこの研究は、幕府と諸藩が「自ら取得した艦船を再び売却あるいは相互貸借したり、幕府に献納したりするなど、艦船の活発な移動が行われている」と述べています。
同じ研究は、失われ方についてもこう書いています。艦船が「航海術の未熟さ、あるいは薩英戦争や長州攘夷戦争のような原因によって沈没したり、焼却されたケースが少なくなかった」。胡蝶丸が明治三年に大阪で機関の爆発によって沈んだのも、その一例にあたります。買った船を使いこなす人のほうが、船よりも足りなかったわけです。
薩摩藩は何隻持っていたのか
同じ研究の表によれば、薩摩藩が取得した艦船は二十五隻前後で、諸藩のなかでも最多の部類に入ります。薩摩・佐賀・久留米・筑前・肥後・安芸・長州・土佐といった西南の諸藩が目立つ、というのがこの研究の見立てです。
薩摩藩は安政三年以後、国内での建造をやめて海外からの購入に切り替えました。胡蝶丸のような買い入れ船が並ぶのは、その方針の結果です。集成館で船を造る道から、長崎や横浜で船を買う道へ移ったことになります。
もっとも、買うほうも思うようにはいきませんでした。慶応元年にイギリスへ渡った新納久脩らは、グラスゴーのランドルフ・エルダー社で軍艦の図面を二種検討しています。木造で大砲十六門の新造艦が十九万五千両ほど、水面下に厚い鉄板を張り回転砲台を載せた鋼鉄艦が三十万両から三十一万両。黎明館の紀要はその交渉の記録を紹介したうえで、末尾に「但実施ニ至ラズ」と記しています。留学生の派遣には艦船買い付けの実務が伴っていましたが、いちばんの目玉である新造軍艦の発注は成立しませんでした。
同じ名前の船について
幕末の船は売り買いで持ち主が変わることが多く、同じ名前が別の船に付けられることもありました。当サイトには、胡蝶丸と同じ(または近い)名前の船のページがほかにもあります。
- 胡蝶丸(土佐藩・輸送船・蒸気外輪)—要目(機関・馬力)が同じで、持ち主が移った同じ船とみられます
胡蝶丸を船の型と持ち主から読む
胡蝶丸の推進は外輪(外車)で、両舷の大きな輪が水をかいて進みます。外輪船は浅い水でも走りやすい一方、輪が砲撃の的になりやすく、軍艦としては次第にスクリュー船に置きかわっていきます(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。
当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この胡蝶丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、三邦丸(蒸気内輪船)、万年丸(仮装軍艦)、豊瑞丸(輸送船)、平運丸(ブリッグ級輸送船)、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)、竜田丸(バーク級輸送船)、青鷹丸(輸送船)などがあります。
持ち主の薩摩藩—文久の改革
久光と勅使
胡蝶丸が造られた文久二年(1862)、島津久光は京都から勅使の大原重徳を守って江戸へ下り、幕府に政治の改革を迫りました。その結果、一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就き、参勤交代もゆるめられます。これを「文久の改革」と呼びます。
生麦事件
ところがその帰り道、久光の行列は横浜近くの生麦村でイギリス人を斬る事件を起こしました。久光の上洛と江戸行きは、幕府の政治を動かす一方で、翌年の薩英戦争の原因もつくったのです。



