| 小芙蓉丸 | |||
| 藩名 | 伊予松山藩 | ||
| 藩主 | 松平勝成 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 80馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
■ 詳細
原名「チウサン(舟山)」鉄製スクリュー汽船で、80馬力・長31間4・幅4間4・434トンと伝わります。慶応4年(1868)1月末、「杉孫七郎」率いる約500人の長州藩兵が30隻の船に分乗して、三津浜に進駐し、松山藩の軍艦「小芙蓉丸」はそのおり長州藩兵によって奪い取られました。
長州藩は奪い取った小芙蓉丸を華陽丸と改名し、慶応4年3月26日に大阪の天保山冲でおこなわれたわが国最初の観艦式に自藩艦船として参加させました。明治5年(1872)、華陽丸は売却され解体処分されました。
所属した伊予松山藩と、土佐藩による接収
この軍艦・小芙蓉丸を運用したのは、伊予の伊予松山藩(久松松平家)です。親藩であった松山藩は、戊辰戦争で厳しい立場に立たされました。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府方についた松山藩は、朝敵とみなされ、隣国・土佐藩の軍に城下を接収されます。しかし藩を挙げて恭順の姿勢を示したことで、戦火を交えることなく存続を許されました。旧幕府方の親藩が、いかにして生き延びたかを示す一例です。小芙蓉丸は、その松山藩の一隻でした。
幕末軍艦一覧リスト
この船が並んだ観艦式
長州藩に奪われて華陽丸となったこの船が出た慶応四年三月二十六日の観艦式は、明治天皇が大阪の天保山沖で諸藩の軍艦をご覧になったもので、防衛省防衛研究所の論考も大阪市の年表も、これをわが国で最初の観艦式としています。並んだのは佐賀藩の電流丸、肥後藩の万里丸、久留米藩の千歳丸、薩摩藩の三邦丸、安芸藩の万年丸、そして長州藩の華陽丸の六隻と、フランスの軍艦一隻でした。総指揮の聖護院宮嘉言親王は電流丸に乗り、二十一発の祝砲が撃たれています。
目を引くのは、この六隻のうち二隻までが、もとの持ち主から離れた船だったことです。華陽丸は松山藩から長州藩が奪ったもの、万年丸は薩摩藩が買って慶応二年に広島藩へ売ったものでした。天保山沖に並んだ六隻は、そういう来歴を抱えた艦隊でもあります。
船を失ったのと、城を明け渡したのは、同じ数日のうちでした
慶応四年一月末に杉孫七郎の率いる長州藩兵およそ五百人が三十隻に分乗して三津浜へ上がり、この船を奪いました。同じころ松山藩は、鳥羽伏見で旧幕府方についたことから朝敵とされ、一月二十七日には戦わずに城を明け渡して土佐藩の占領下に入ります。城が返されたのは五月二十二日でした。船を取られたのと城を明け渡したのは、ほとんど同じ数日のうちの出来事だったことになります。
表の藩主を改めました
この記事の表は藩主を久松定穀としていましたが、愛媛県の資料によれば定穀は松平勝善のことで、安政三年に亡くなっています。慶応四年にこの船を失った当時の松山藩主は松平勝成ですので、表を改めました。なお久松の姓に戻したのは明治元年のことです。

