
| 回天丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクーナー級砲艦 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 13門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 400馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||
■ 詳細
幕府がイギリスより購入しました。蒸気外輪船で、函館五稜郭までの戦闘で活躍。宮古湾海戦では新政府海軍鋼鉄鑑にアボルダージュ攻撃を仕掛けたが多数の死傷者を出して撤退します。函館湾沖海戦中に鋼鉄艦に撃沈され最後は浮砲台となって交戦したが益なくして艦に火を放ち退艦しました。
旧幕府軍の主力「回天丸」
回天丸は、外輪で進む蒸気軍艦で、幕府海軍の有力艦の一隻でした。榎本武揚が率いる旧幕府艦隊に加わり、江戸を脱走して蝦夷地へと転戦しました。
宮古湾海戦の斬り込み
回天丸の名を高めたのが、1869年(明治2年)の宮古湾海戦です。旧幕府軍は、新政府が擁する装甲艦・甲鉄(東艦)を奪い取ろうと、回天丸を突入させ、敵艦に乗り移る「アボルダージュ(接舷斬り込み)」を敢行しました。回天丸はこの奇襲作戦の中心となりましたが、甲鉄の激しい銃撃と甲板の高低差に阻まれ、作戦は失敗に終わります。この壮烈な斬り込みは、旧幕府軍最後の反攻として語り継がれています。
箱館での最期
作戦失敗ののち箱館へ戻った回天丸は、箱館湾の戦いで損傷し、旧幕府軍の降伏とともにその役目を終えました。
回天丸をもっと深く——プロイセンの軍艦が、宮古湾に斬り込むまで
三つの国を渡った船
回天丸はもともと日本のために造られた船ではありません。1851年、プロイセン王国のダンツィヒ造船所で進水した軍艦「ダンツィヒ」がその前身です。この造船所が最初に手がけた軍艦でした。
1862年にプロイセン海軍を除籍されるとイギリスの商社に売られ、ロンドンで改装されて「イーグル」と改名されます。それが長崎へ回されてきたところを、長崎奉行が十八万六千ドルで買い取りました。購入年は慶応元年(1865年)とする資料と、その前年とする資料があります。
ドイツで生まれ、イギリスで手を入れられ、日本で最期を迎えた船です。「幕府がイギリスから購入した」と説明されることが多いのは、売り手がイギリス商人だったためで、建造したのはプロイセン海軍向けの造船所でした。
要目——中古の外輪艦を、高値で
| 建造 | プロイセン・ダンツィヒ(1851年進水) |
|---|---|
| 旧名 | ダンツィヒ → イーグル |
| 排水量 | 約1,678トン |
| 推進 | 外輪(木造外輪汽船) |
| 出力 | 400馬力 |
| 備砲 | 11門(13門とする資料もあり) |
| 購入価格 | 186,000ドル |
外輪は浅い海に強く、低速でも扱いやすい。その代わり、船体の両脇に突き出した巨大な外輪そのものが的になります。世界の海軍はすでにスクリューへ移りつつあった時期で、幕府が中古の外輪艦を十八万六千ドルも出して買わねばならなかったところに、当時の台所事情が出ています。開陽丸のような新造艦は、そう何隻も注文できませんでした。
宮古湾——甲鉄を奪え
明治二年三月二十五日、回天丸は新政府軍の装甲艦甲鉄艦を奪い取るため、宮古湾に突入しました。旧幕府軍は江差沖で開陽丸を失って制海権を落としており、これを一気に取り返す作戦でした。
ところが回天丸は外輪船です。舷側に外輪があるため横付けができず、艦首から相手に乗り上げる形でしか接舷できません。しかも甲鉄のほうが乾舷が低く、斬り込み隊は飛び降りる格好になりました。一度に渡れるのは数人ずつです。
そして甲鉄には、当時としては新兵器のガトリング砲が据えられていました。斬り込み隊は甲板に降りたところを掃射され、艦長・甲賀源吾は舵輪のそばで撃たれて戦死します。薩摩藩の春日丸も加勢に回り、作戦は失敗に終わりました。
蒸気軍艦の時代に、船を横付けして斬り込むという戦法が実行された例は、世界の海戦史でもほとんどありません。装備で劣る側が最後に選ぶ手が、白兵戦だったということです。
箱館湾、最後の砲台
箱館へ戻った回天丸は、四月末からの箱館湾海戦で八十発以上を被弾しました。動けなくなってもなお浮き砲台として撃ち返し、五月十一日の総攻撃のさなかに焼失します。蟠龍丸が新政府軍の朝陽丸を沈めたのは、この同じ日の朝のことでした。
椅子と煙草盆になった船
戦後、回天丸の残骸から取れた木材で、ドイツ人技師が椅子を作り、旧幕臣の荒井郁之助が煙草盆をこしらえたという話が伝わっています。
沈んだ軍艦が家具になって身近に残る——幕末の船の多くが記録すら残さずに消えたことを思えば、これはかなり幸運な部類の「その後」です。
幕末軍艦一覧リスト

