腰越 次郎(野村幸次郎)【越前藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

腰越 次郎(野村幸次郎)
出身 越前藩
職名

腰越次郎は越前藩出身で変名を野村幸次郎。

亀山社中が設立される比較的早い時期から参加していたものと推測されます。元来が機関方の専門家で、幕府所有の洋式船の乗組員でした。

故あって幕府の支配下から脱し亀山社中に参加したもの伊予大洲藩が新たに購入した「イロハ丸」の運用指導を兼ね、橋本久太夫、菅野覚兵衛等と共に派遣されています。

腰越次郎は血気盛んな男だったらしく「伊呂波丸」と紀州藩船「明光丸」との衝突沈没の際は相手の船によじ登り、談判に及んでいます。脱隊を決意し切り込みを企てる程の意気込みだったらしいが、結果的には坂本龍馬に制止されて断念しました。

維新後の消息は不明で、没年、墓所も不詳です。

身分は分かりませんが、越前の出です

海援隊の顔ぶれを出自で調べた研究の表で、腰越次郎は身分が「不明」に分けられています。ただし出身の国のほうは書かれていて、越前、いまの福井です。この表で身分が不明とされるのは六人で、橋本 久太夫が越後、渡辺剛八・三上栄太郎・小谷耕蔵・腰越次郎・佐々木栄の五人が越前でした。

越前から五人

同じ表によれば、海援隊の顔ぶれは土佐藩の出が十六人で半分を占め、残りは越前と越後に偏っています。渡辺剛八は越前福井の城下、地蔵町の生まれと分かっており、五人がまとまって同じ国から来ていることになります。脱藩した者が寄り集まる組織でしたが、その集まり方には地縁があったことがうかがえます。

それ以外は、分かりません

腰越次郎の生まれた年も、亡くなった年も、海援隊で何をしたのかも、そのあとどうなったのかもわかっていません。野村幸次郎という別の名も伝わりますが、この名で記した資料も見あたりません。なお振遠隊の幹部に野村要助という元海援隊士がおり、また海援隊士に野村維章(辰太郎)という土佐の人もいますが、いずれも同じ人かどうかは分かりませんでした。

目次

腰越次郎の生きた時代—越前藩と龍馬

越前藩の出身者たち 腰越次郎(野村幸次郎)は越前藩(福井藩)の出身です。海援隊には、なぜか越前藩の出身者が何人も加わっていました。その背景には、越前藩の前藩主・松平春嶽と龍馬との深いつながりがあります。

春嶽と龍馬 文久三年(1863)、龍馬は勝海舟の使いとして福井を訪れ、春嶽から神戸の海軍操練所の資金として五千両を借り受けたと伝えられます。春嶽は龍馬の人柄を気に入り、越前藩の若者たちが龍馬のもとへ行くことを妨げませんでした。越前出身の隊士たちは、こうした縁で海援隊に集まったと考えられます。

参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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名前が残った、というだけの隊士です

正直に書いておきます。この人について調べられたのは、いろは丸に乗っていたことと、そのあとの談判の席にいたこと、その二つだけでした。慶応三年四月にいろは丸が長崎を出たときの乗組員に腰越次郎の名があり、五月十五日から始まった紀州藩との交渉でも、坂本 龍馬、小谷 耕造、岩崎弥太郎と並んで名が挙がっています。ところが、その席で何をしたのかは分かりません。

別名も、出身も、わかっていません

変名を野村幸次郎とし、越前藩の出とする記述がありますが、この二つを裏づける資料をこちらでは見つけられませんでした。辞典類に独立した項目がなく、名前が出てくるのはいろは丸の乗組員一覧と交渉参加者の一覧だけです。生まれた年も、亡くなった年も、墓の場所も分かりません。

それでも、船には乗っていました

分からないことばかりですが、ひとつ確かなのは、この人が沈んだ船に乗っていたということです。慶応三年四月二十三日の深夜、備中の六島の沖でいろは丸は紀州藩の明光丸とぶつかり、翌朝に沈みました。死者は出ていません。つまり腰越次郎は、沈む船から助かった一人です。そして賠償の談判にも立ち会いました。佐柳高次(前田常三郎)のように当番士官として何をしたかが伝わる者もいれば、名前だけが名簿に残る者もいます。同じ船に乗っていても、記録に残る量はこれほど違います。

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