住谷寅之助・大胡聿蔵 宛

住谷寅之助・大胡聿蔵 宛

原文
尊札拝見仕候。寒気之節益御安泰、長途無御障り御修行、珍重之御儀奉存候。扨仰被越候御趣、何レ拝顔之上御相談可申上奉存候。然ニ奴儀無拠要用ニ相掛居申候間、明後出足ニ而其御許迄参上可仕奉存候。誠ニ偏境之地、殊ニ山中御滞留故、御徒然奉察候。恐惶謹言。十一月十九日坂本龍馬加藤於莵之介様菊地清兵衛様貴下
現代文
お手紙拝見しました。寒い季節ですが、ますますご安泰のようですね。長い修行(遊説)にも障害ないようで、是非貴重なお話もして頂けたらと思っています。さて、お越し頂きました内容ですが、何れお会いしてご相談させて頂けたらと思います。それにも関らず、やむをえず必要な手続き(領内へ入る手続き)を掛け合っている最中ですので、明後日には出発したいと思います。このような辺境の地へ、まして山中へ滞在して頂き、まことに退屈なことでしょう。11月19日坂本龍馬住谷寅之助様大胡聿蔵様(2人とも水戸の勤皇家で高知まで遊説しにきていて龍馬に領内へ入れてもらえるよう頼んでいた。)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

他藩の志士・住谷寅之助と大胡聿蔵へ宛てた手紙で、遠来の相手をねぎらいつつ、領内へ入る手続きを整えている旨や、翌日そちらへ出向きたい意向を伝えています。藩の枠を越えて志士どうしが結びつこうとする、幕末ならではの人的交流の一場面がうかがえます。

宛先「住谷寅之助・大胡聿蔵」とはどんな人物か

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

住谷寅之助は水戸藩系の尊皇の志士で、諸国を巡り同志を求めていた人物です。大胡聿蔵もその同行者と見られます。彼らのような各地の志士との出会いが、のちに藩を越えて動く龍馬の世界を大きく広げていきました。

この手紙が書かれたころ

二度目の江戸での剣術修行を終えて土佐へ戻っていたころの龍馬です。脱藩の三年余り前で、土佐勤王党もまだできていません。国境の番所で足止めされた水戸の二人と、一人の郷士として行き来したことが、他藩の志士とかかわる早い経験になりました。安政五年は、大老井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍の跡継ぎをめぐる争いとも重なって、各地で反発が強まった年です。九月からは安政の大獄が始まり、水戸藩も幕府から厳しく追及される立場に置かれていました。この時期、武市半平太を盟主とする土佐勤王党が結成され、下士層を中心に尊皇攘夷の勢力が急速に力を伸ばしていました。龍馬もその一員として、藩の内外で同志の輪を広げていた時期にあたります。

安政五年、立川番所で足止めされた水戸の二人への返書

手紙の日付は「十一月十九日」だけで、宮地佐一郎はこれを安政五年十一月十九日と比定し、山内家資料の「関係文書第一」から収めています。宛名は「加藤於莵之介」「菊地清兵衛」ですが、宮地はこれを住谷信順と大胡資敬、つまり住谷寅之助と大胡聿蔵にあてたものとしています。宮地の比定どおりなら、脱藩より三年以上前、土佐勤王党ができる前の龍馬が書いた一通になります。

高知県立坂本龍馬記念館の解説では、住谷と大胡は入国の手形を持たず立川番所で土佐に入れなかったため、立川の荷宿から龍馬に周旋を頼みました。龍馬は二十三日の夜、雨の中を立川まで駆けつけて会談しています。手紙の「明後出足」は明後日の出発を指し、「山中御滞留」は山あいの番所で足止めされた二人を気づかう言葉です。水戸の尊攘派と土佐の一郷士が、国境の番所をはさんでやりとりした記録として、龍馬の手紙のなかでも早い時期の一通です。

同じころの日本—安政の大獄

世の中では 安政五年(1858)八月、朝廷は幕府を通さずに水戸藩へ直接、条約調印を責める勅書を下しました(戊午の密勅)。これに怒った大老・井伊直弼は、九月から尊王攘夷派の志士や公家の家臣を次々と捕らえ始めます。安政の大獄です。京都では梅田雲浜らが捕らえられ、十二月には長州の吉田松陰も再び獄に入れられます。

水戸の人々と龍馬 宛名の住谷寅之助は水戸藩士で、この大獄の嵐のさなかに龍馬と連絡を取っていた人物です。密勅を受けた水戸藩は、幕府から勅書の返上を迫られて藩内が大きく揺れていました。のちに桜田門外で井伊直弼を討つのも、この水戸の浪士たちでした。

安政五年の土佐と、江戸から戻った龍馬

江戸から帰ったばかりの龍馬

龍馬は安政三年から二度目の江戸遊学に出て、千葉定吉の道場で北辰一刀流を学びました。土佐に戻ったのは安政五年の秋です。この手紙は、その帰郷からまもないころに書かれたものと考えられます。江戸で諸藩の剣士や志士と交わった龍馬のもとには、他国の人びとが訪ねて来るようになっていました。

水戸藩と戊午の密勅

安政五年八月、朝廷は水戸藩に、幕府の政治を改めるよう求める勅書を直接下しました。戊午の密勅と呼ばれるものです。水戸藩の志士たちは各地の藩をまわって同志を募りました。土佐の立川番所で足止めされた住谷寅之助と大胡聿蔵も、そうした水戸の志士です。土佐藩は他国の者の出入りを厳しく取り締まっており、二人は国境で止められました。

容堂と安政の大獄

このころ土佐藩主の山内容堂は、将軍の跡継ぎをめぐる争いで一橋慶喜を推す側に立っていました。井伊直弼が大老となり、紀州の慶福(のちの家茂)が将軍の跡継ぎに決まると、一橋派は追い詰められます。容堂は翌安政六年に隠居を命じられ、謹慎の身となりました。坂本家では、父の八平を三年前に亡くし、兄の権平が家を守っていました。

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