佐佐木高行 宛(慶応三年八月二十六日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

原文
一筆啓上候。然ニ今日木圭より一紙相達候間、御覧に入候。同人事は御国の情ニ能通じ居り候ものにて、彼初強く後、女の如などは尤吾病にさし当り申候。何卒御国の議論も根強く仕度、唯此所一向ニ御尽力奉願候、謹言。八月廿六日直柔佐々木先生龍拝左右
現代文
一筆書かせて頂きます。本日桂小五郎から手紙が送られてきましたのでご覧に入れます。この人は土佐の事情によく通じている人です。彼らは初めは強く出て、後は女のごとくふるまう、このようなことなどはもっともまずい病(土佐藩の弊害)なのです。何卒お国の議論を根強く、ただこの一点にご尽力の程宜しくお願い致します。8月26日直柔(龍馬本名)佐々木先生(佐佐木高行:土佐藩士)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「本日、桂小五郎から手紙が届いたので見てほしい。この人は土佐の事情によく通じています。初めは強く出て後は女のようにひるむ―これこそ最も悪い病(土佐藩の弊害)だ。どうか国論を根強く保つよう、この一点に尽力してほしい」と、故郷・土佐藩の煮え切らない姿勢を厳しく戒める手紙です。八月二十六日付、本名「直柔」の署名。

宛先「佐佐木高行」とは

佐佐木高行
佐佐木高行(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

佐佐木高行は海援隊を監督する土佐藩の要人で、龍馬が本音で藩の弱腰を諫めることのできる相手でした。土佐藩を内から動かしうる立場の人物です。

この手紙が書かれたころ

倒幕へ向けた最終局面で、故郷・土佐藩の優柔不断な態度に苛立ち、腹心に発破をかけていました。桂小五郎の言葉を引きながら、土佐に一貫した姿勢を求めています。諸藩の去就が政局を大きく左右し、藩論の一貫性が問われた時期でした。ぐらつく藩は、時代の流れに取り残されかねませんでした。土佐藩は公議政体論と武力倒幕の間で揺れていました。龍馬はその優柔不断を「病」と断じ、腹心を通じて藩を叱咤していたのです。

木戸の手紙を回して、土佐の議論を強くせよ

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年八月二十六日のものとしています。今日「木圭」から一通届いたのでお目にかける、この人は土佐の事情によく通じている、「初めは強く、後は女のよう」になるのがまさにこちらの病にあたっている、どうか土佐藩の議論も根強くしてほしい—と佐々木 高行に書き送っています。

「木圭」は、宮地がこの手紙の注で「木戸孝允」と明記している呼び名で、木戸の「木」と桂小五郎の「圭」を合わせたものです。長州の木戸から見て、土佐藩は勢いよく言い出しては腰砕けになる、と映っていたのでしょう。龍馬はその木戸の言葉を、そのまま土佐藩の大監察に突きつけています。慶応三年の夏、土佐藩は薩摩と盟約を結んで大政奉還へ向かおうとしていましたが、藩内の足並みはそろっていませんでした。九月十八日付の手紙でも、龍馬は木戸の長文の手紙を佐々木から返してもらおうとしています。長州の本音を土佐の中枢に伝える役を、龍馬が買って出ていたことが分かります。

同じころの世界—パリ万国博覧会

パリでは 慶応三年(1867)、パリでは万国博覧会が開かれていました。日本からは幕府のほか、薩摩藩と佐賀藩が出品しています。このとき薩摩藩は「薩摩琉球国」を名のって幕府とは別に出品し、日本の代表が誰なのかをめぐって幕府と対立しました。幕府の権威が揺らいでいることは、遠くヨーロッパでも知られるようになっていたのです。

宛名の佐佐木高行 佐佐木は土佐藩の大目付で、イカルス号事件の処理のために長崎に派遣され、龍馬とともに英国側との交渉にあたりました。維新後は明治政府で参議などを務め、龍馬の動きを伝える記録も残しています。

慶応三年八月末、木戸孝允と土佐の弱点

木戸と龍馬

手紙に名の出る桂小五郎は、のちの木戸孝允です。慶応二年一月の薩長の盟約では、龍馬が盟約の内容を確かめる裏書を記し、木戸に送り返しました。それ以来、龍馬は長州の側の最も信頼できる相手として、木戸と手紙を交わし続けています。その木戸が「土佐の事情によく通じている」と龍馬が書いているのは、土佐藩の内情が長州にもよく知られていたことを示しています。

「初めは強く、後は女のごとく」

龍馬がこの手紙で嘆いているのは、勢いよく動き出しながら、途中で腰が砕ける土佐藩の癖です。このころの土佐藩では、山内容堂を中心に、幕府を立てながら改革を進める考えが根強くありました。一方で、乾退助らは薩摩と組んで武力で倒幕する道を探っています。龍馬は佐佐木高行に、藩の議論をぶれさせないよう力を尽くしてほしいと頼んでいました。

兄から届いた刀

この年の二月、兄の権平は、土佐を訪れた西郷隆盛に、坂本家の刀「吉行」を龍馬へ届けてほしいと託していました。前の年の暮れに龍馬が兄に頼んでいた刀です。この陸奥守吉行は、のちに龍馬が近江屋で襲われた夜にも、そばに置かれていたと伝わります。

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