岡内俊太郎 宛
| 原文 |
| 参上仕、何か御咄可仕筈ニ御座候得ども、なにぶん気もちあしく、よわり居申候。然ニ佐々監察ニも申置度事も在之候得バ、御ひま御座候得バ、御出可被下候。いかゞ相願度。謹言。廿三日龍佐々木三四郎様御同宿岡内俊太郎様楳拝首左右 |
| 現代文 |
| そちらに行き、何かお話したいけれども何分にも気分が悪く、よわりました。佐々木監察(佐々木三四郎:土佐藩士)にも申し上げておきたいことがありますので、お暇があればお越しください。佐々木三四郎様御同宿岡内俊太郎様(土佐藩士) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「そちらへ伺って話すはずが、気分が悪く弱ってしまいました。佐々木監察にも申し上げておきたいことがあるので、暇があれば来てほしい」という、体調不良を告げる私信です。二十三日付。東奔西走の龍馬が、思いがけず弱った姿を見せる、人間味あふれる一通です。
宛先「岡内俊太郎」とは

岡内俊太郎は土佐藩士で、龍馬の身近な連絡役をつとめました。同宿の佐々木三四郎(佐佐木高行)は海援隊を監督する立場にあり、龍馬とは近い距離にいました。
この手紙が書かれたころ
休む間もなく動き回る日々のなかで、龍馬も体調を崩すことがありました。人に来てもらうほど弱っている様子に、超人ではない生身の龍馬が見えてきます。志士たちは無理を重ねて活動しており、病や過労と隣り合わせでした。華やかな歴史の裏に、こうした身体の実感がありました。龍馬は佐佐木高行ら土佐藩の要人と近い距離で動いていました。藩と浪士の関係が深まりつつあった時期の、日常の一場面です。
寝込んだ龍馬と、同じ宿の二人
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年八月二十三日のものとしています。四日前の十九日には同じ岡内 俊太郎に仲間を呼び集める手紙を出していますから、その直後に体を悪くしたことになります。長崎でイカルス号事件の談判が続いていたさなかでした。
宛名の書き方にも中身があります。「佐々木三四郎様御同宿 岡内俊太郎様」とあって、岡内が佐々木三四郎と同じ宿にいたことが分かります。佐々木三四郎は土佐藩の大監察だった佐々木 高行の通称で、本文の「佐々監察」も同じ人です。海援隊を藩の側から監督していた人と、龍馬の連絡役とが、一つ屋根の下にいたわけです。龍馬は自分で出向けないので、伝えたい用件をまとめて、佐々木に時間があれば来てほしいと頼んでいます。この年の十一月に龍馬は京都で斬られますから、残された時間は三か月ほどでした。
同じころの江戸と横須賀—幕府の近代化
江戸では 同じころ、幕府は勘定奉行・小栗忠順を中心に、フランスの協力を得て横須賀に製鉄所(造船所)を建設していました。元治二年(1865)に始まった工事は着々と進み、幕府はこの施設を中心に近代的な海軍を育てようとしていたのです。小栗は「たとえ幕府が倒れても、この製鉄所は土蔵付きの売り家として残る」と語ったと伝えられます(小栗上野介ゆかりの地)。
長崎の龍馬 一方の龍馬は、長崎でイカルス号事件の後始末に追われていました。幕府が国の力で船と海軍を整えようとしていたこの時期、龍馬は藩の外の民間の組織である海援隊で、船と人を動かしていたことになります。
慶応三年八月下旬、長崎の龍馬と土佐の人びと
事件の審理と、寝込んだ龍馬
イカルス号事件の審理は、八月の半ばから長崎で続いていました。海援隊の隊長である龍馬は、土佐藩の大目付・佐佐木高行とともに、この審理に向き合っていました。手紙の「気分が悪く、よわりました」という一言には、心労の重なった時期の龍馬の姿がのぞきます。
佐佐木高行と岡内俊太郎
佐佐木はこの年、薩土盟約の話し合いにも加わった土佐藩の重役です。藩の正式な側から事件の後始末にあたるため、長崎に来ていました。宛先の岡内俊太郎は、のちに海援隊で龍馬の秘書役を務め、武器の調達にもかかわった人物です。この手紙からは、藩の役人と海援隊の隊長が、同じ宿の近くで連絡を取り合っていた様子が分かります。
海援隊にいた甥・高松太郎
海援隊には、龍馬の甥も加わっていました。長姉・千鶴の長男、高松太郎です。神戸海軍操練所で学んだのち脱藩し、亀山社中の結成にもかかわりました。海援隊では「小野淳輔」と名乗っています。龍馬の死後は、明治四年に龍馬の家名を継いで坂本直となりました。
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