佐佐木高行 宛(慶応三年八月二十五日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

佐佐木高行 宛

原文
石田及下等士官水夫頭には、私より金少々遣し申候。弐拾金御つかはしになれば可なり。西洋衣がと〃のい申候。彼横笛船では船将にて候得バ、夫ばかりの事してやり度奉存候。何れ御考奉願候。再拝。八月廿五日龍馬再拝。佐々木先生左右
現代文
石田(海援隊士:石田英吉)及び下士官水夫頭には私からお金を少々渡しました。あと20金程下されれば良いです。西洋の衣服は整いました。あの横笛船では船将なのでそれくらいのことはしてやりたいと思います。何れ、お考えの上宜しくお願い致します。8月25日龍馬佐々木先生(佐佐木高行:土佐藩士)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「石田英吉ら下士官や水夫頭には私から少し金を渡しました。あと二十金ほど出してもらえれば西洋の衣装が整います。横笛船では彼が船将なので、それくらいはしてやりたい」と、海援隊士の装備や待遇について相談する手紙です。八月二十五日付。隊士を気づかう、龍馬の面倒見のよさがよく表れています。

宛先「佐佐木高行」とは

佐佐木高行
佐佐木高行(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

佐佐木高行は土佐藩士で、海援隊を監督する立場にありました。隊の経費は藩とのやり取りで賄われており、佐佐木の裁量が大きかったため、こうした相談が持ちかけられています。

この手紙が書かれたころ

海援隊という組織を率い、隊士の給与や装備にまで気を配っていました。西洋式の身なりを整えるのも、近代的な海の集団を作る試みの一環でした。文中の石田英吉は、のちに男爵や県知事となる人物です。西洋式の装備や服装が、新しい時代の象徴になりつつありました。海援隊はその最先端を行く集団でした。海援隊は土佐藩の外郭であり、経費は藩と折衝して賄われていました。龍馬は藩との交渉役も担っていたのです。

水夫たちに洋服を—イカルス号事件の後始末

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年八月二十五日のものとしています。宮地の本文の末尾には「佐々木高行日記」とあり、佐々木 高行の日記に書き写されて残ったものです。石田と下等士官、水夫頭には自分から金を少し渡しておいた、二十金を出してもらえればそれでよい、洋服も揃った、あの横笛船では船将なので、それくらいのことはしてやりたい—と、土佐藩の大監察に相談しています。

日付の八月二十五日は、長崎でイカルス号事件の談判が続いていた時期です。七月六日の夜に英国水兵が斬られたとき、土佐藩の船「横笛」が手続きを整えないまま長崎を出たことで、海援隊に疑いがかかりました。この手紙の「横笛船」が同じ船を指すのかどうか、また「石田」が誰なのかについて、宮地は注を付けておらず、こちらでも確認できません。石田といえば海援隊には石田英吉がいますが、同じ人と言い切る材料はありません。いずれにしても、船の者たちに褒美と洋服を与えたいという龍馬の気の配り方が、藩の役人とのやり取りのなかに残っています。

同じころの京都—岩倉具視と志士たち

洛北の岩倉村では 公家の岩倉具視は、和宮降嫁を進めたことなどを責められて朝廷を追われ、京都の北の岩倉村で暮らしていました。慶応三年(1867)になると、この岩倉のもとを薩摩の大久保利通や、龍馬の盟友・中岡慎太郎らがしきりに訪ねるようになります。岩倉はやがて朝廷の中で倒幕を進める中心となり、十月の「討幕の密勅」にも深く関わりました。

宛名の佐佐木高行 佐佐木は土佐藩の大目付として長崎に来ていた人物で、イカルス号事件の交渉で龍馬と行動をともにしました。京都で倒幕の準備が進む一方、長崎では土佐藩の重役と龍馬が、英国との談判という別の難題に向き合っていたのです。

坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

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慶応三年八月末、龍馬と佐佐木高行、海援隊の船

横笛丸と石田英吉

手紙に出てくる横笛丸は、海援隊が動かしていた船の一つです。イカルス号事件の夜、海援隊の船が長崎港を出ていたことから、隊に水夫殺害の嫌疑がかかりました。船将の石田英吉は、土佐出身の医師の家の生まれで、天誅組の変や長州の戦いをくぐり抜けてきた人物です。のちに明治政府で県知事などを務めました。

藩の金で隊士を労う

龍馬がこの手紙で佐佐木に金の工面を頼んでいるのは、海援隊が土佐藩の外郭の組織だったからです。隊の運営には、土佐藩の長崎の窓口である土佐商会の金が使われていました。洋服をあつらえ、水夫頭にまで心づけを渡す龍馬の細やかさは、隊士たちが龍馬を慕った理由の一端をうかがわせます。

京都で動く土佐の重臣たち

同じころ京都では、後藤象二郎が大政奉還の建白を急いでいました。六月に結んだ薩土盟約は、この建白を幕府に出すことを約束したものです。しかし、薩摩藩はしだいに武力による倒幕へ傾き、九月の初めには盟約が解消されます。長崎で事件の後始末に追われる龍馬と佐佐木の背後で、政局は大きく動いていました。

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