坂本乙女(姉) 宛
| 原文 |
| 私しが土佐に帰りたりときくと、幕吏が大恐れぞ、はやきおもみ申候。四方の浪人らがたずねてきて、どふもおかしい。近日京ニ後藤象二郎とのぼらんと思ひ候。其時ハ伏見の寺田やでやどかり、伏見奉行をおそれさしてやろふとぞんじおり候。 何かさしあげ度候得ども、鳥渡これなく白がねきひときさしあげ候。御めしものニ被成候得バ、ありがたし。かしく。四月七日龍馬乙様 |
| 現代文 |
| 私が土佐に帰ったと聞くと、幕府の役人が恐れるので気をもんでいます。四方の浪人らが訪ねて来てどうもおかしい。近日京都へ後藤象二郎と向かおうかと思ってます。その時は伏見の寺田屋で宿を借り、伏見奉行を恐れさせてやろうかと思います。何か差し上げたいけど、白い金巾を一匹しかないからそれを差し上げます。着物にでもして頂けるとありがたいです。4月7日龍馬乙女様(龍馬の姉) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「私が土佐に帰ったと聞くと幕府の役人が恐れるので、気をもんでいます。あちこちの浪人が訪ねてきて、どうもおかしい。近く後藤象二郎と京へ上ろうと思います。その時は伏見の寺田屋に泊まり、伏見奉行を恐れさせてやろう。何か贈りたいが白い金巾(かなきん)一匹しかないので、それを送ります。着物にでも」という、姉への威勢のよい手紙です。四月七日付。追われる身をむしろ楽しむような、龍馬の負けん気と茶目っ気が痛快です。
宛先「坂本乙女(姉)」とは

坂本乙女は、龍馬を武芸も学問も仕込んで育てた姉です。龍馬がもっとも心を許した肉親であり、本音をぶつけられる相手でした。
この手紙が書かれたころ
幕府に危険人物として警戒されるほどの存在になっていました。それを誇るように姉へ語る言葉に、龍馬の大きな自負が表れています。一介の浪士でありながら、龍馬は幕府が名を知る「要注意人物」となっていました。そのこと自体が、時代の異例さを物語っています。郷里の姉に胸を張ってみせる龍馬にとって、故郷は本音を吐ける唯一の場所でした。後藤象二郎と上京する計画にも、土佐との再接近がうかがえます。
寺田屋に泊まって伏見奉行を驚かせるという強がり
手紙の日付は「四月七日」だけで、宮地佐一郎は『龍馬の手紙』でこれを六十一番「慶応三年四月七日 坂本乙女あて」として収め、慶応三年と比定しています。伏見の寺田屋は、前年の慶応二年一月二十三日に、龍馬が伏見奉行所の捕り方に踏み込まれた宿です。同じ年の十二月に兄へ送った四十二番の手紙でも、龍馬はこの遭難をくわしく書き、伏見奉行の側が「打ち取れ」とののしったと聞いたことまで伝えています。その寺田屋にあえて泊まろうという一文は、命を狙われた場所へ堂々と戻ってみせるという意地の表れと読めます。
比定どおりなら、この手紙から十六日後の四月二十三日に、海援隊のいろは丸が瀬戸内の六島沖で紀州藩の明光丸と衝突して沈みます。姉に軽口をたたいたこの時点では、龍馬はまだその事故を知るよしもありませんでした。宮地の本では、この手紙は『坂本龍馬記念写真帖』に拠っており、写真の説明には東京の中村鋼子氏の所蔵と記されています。
同じころの長州と京都—慶応三年四月
長州では この手紙の一週間後の四月十四日、高杉晋作が下関で亡くなりました。数えで二十九歳でした。長州の軍事を率いた高杉の死は、龍馬にとっても大きな損失でした。
京都では 四月から五月のはじめにかけて、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、そして土佐の山内容堂が相次いで京都に入りました。四人の有力大名が将軍慶喜と話し合い、兵庫の開港や長州の処分を決めようとした「四侯会議」です。土佐の前藩主・容堂が国の政治の表舞台に立ったこの春、乙女の弟・龍馬もまた、土佐藩の一員として動き始めていました。
慶応三年四月、乙女への強がりの手紙
海援隊の発足
この手紙が書かれた慶応三年四月、龍馬の率いてきた亀山社中は、土佐藩の「海援隊」となりました。龍馬は隊長に任じられ、脱藩の罪も許されています。手紙で、自分が土佐に帰ったと聞いて幕府の役人が恐れていると書いているのは、土佐藩の後ろ盾を得た龍馬の自信の表れでしょう。伏見の寺田屋に泊まって奉行を驚かせてやろうというくだりは、前の年にその寺田屋で襲われた龍馬らしい強がりです。
後藤象二郎との上京
龍馬は手紙の中で、近いうちに後藤象二郎と京都へ向かうつもりだと書いています。この計画は、四月二十三日のいろは丸の沈没で先延ばしになりました。龍馬が後藤とともに長崎を発つのは、談判が決着したあとの六月九日です。
「坂本のお仁王様」
宛先の乙女は、龍馬の三つ上の姉で、大柄で武芸にも秀でていたことから「坂本のお仁王様」と呼ばれました。龍馬が最も多くの手紙を送った相手です。乙女は、龍馬の死から十二年後の明治十二年に亡くなりました。龍馬の手紙が今日まで多く残っているのは、乙女や坂本家の人びとがそれを大切に保管していたからです。
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