伊藤助大夫 宛
| 原文 |
| 今日ハ金子御入用と存候得バ、小曽根英四郎みせ番頭清吉を以て、六百両さし出申候。残弐百両ハ竹行の為ニ今シバらく借用仕置候間、其御心積奉願候。早々頓首々。四月六日龍伊藤九三老兄直柔足下 |
| 現代文 |
| 今日は金子が必要とのことなので、小曾根英四郎の店の番頭清吉に持たせて、600両をお届けします。残りの200両は竹島のために今しばらくお借りしたいと思います。4月6日龍馬伊藤助太夫様直柔 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「入用とのことなので六百両を用立てました。残る二百両は竹島のためにしばらく借りておきたい」という、金銭の融通をめぐる手紙です。小曽根家の店を通じて大金を動かしています。文中の「竹島」は、龍馬や海援隊が構想した竹島(現在の鬱陵島)開拓計画を指すとみられます。四月六日付で、慶応年間の資金繰りと新事業への意欲がうかがえる一通です。
宛先「伊藤助太夫」とは
伊藤助太夫は下関の豪商で、龍馬に資金を用立てた有力な支援者です。海援隊の台所を支える、いわば金庫番のような役回りも担っていました。
この手紙が書かれたころ
海援隊の運営は常に資金との戦いで、支援者からの融通や交易の利で回していました。そのなかで竹島開拓のような新事業まで構想していたのが龍馬らしいところです。志士の活動には巨額の資金が要り、豪商の支援が政局を陰で支えていました。金の流れもまた、時代を動かす力でした。土佐藩や大洲藩の資本と船が、海援隊の事業を支えていました。龍馬は藩と商人の間に立ち、資金と船を巧みに動かしていました。
「竹島」ではなく「竹行」と書かれています
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年四月六日のものとしています。その宮地の本文では、残りの二百両を借りておく理由が「竹島の為」ではなく「竹行の為」になっていました。当サイトの原文もそれに合わせて直しました。「竹行」は竹島行き、つまり竹島へ渡る計画のことと読むのが自然です。
この計画は、ひと月前の三月六日付で龍馬が印藤聿に宛てた手紙にも出てきます。そこには「竹島行の事ハ兼而御聞ニ入置候通り」とあり、大洲藩の蒸気船を三月十五日から四月一日まで借りる約束をしたこと、そして「伊藤助太夫事、別ニ小弟の志を憐ミ」、伊藤がこの志にとりわけ共感してくれていることが書かれています。大洲藩の蒸気船とは、のちに紀州藩の船とぶつかって沈む伊呂波丸です。その衝突が起きるのは、この手紙から半月あまり後の四月二十三日でした。金を預けた伊藤助太夫と、船を貸した大洲藩と、竹島への夢とが、一つの手紙のなかでつながっています。店の番頭を使いに立てた小曽根 英四郎は、長崎の豪商小曽根家の四男です。
同じころの龍馬—海援隊の発足
海援隊の誕生 慶応三年(1867)四月上旬、亀山社中は土佐藩の外郭の組織として改められ、「海援隊」となりました。隊長は龍馬で、隊の規約には、脱藩者であっても海外に志のある者は受け入れること、運輸・商い・開拓・投機などを行い土佐藩を助けることなどが定められています。土佐藩からは資金の援助を受け、藩の参政・後藤象二郎がその後ろ盾となりました。
下関と長崎 発足したばかりの海援隊は、さっそく大洲藩から借りた蒸気船いろは丸で、長崎から大坂への航海に乗り出します。そのいろは丸が紀州藩の船と衝突して沈むのは、この手紙の十数日後、四月二十三日の夜のことでした。
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