お登勢 宛(慶応三年二月十三日・62通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

お登勢 宛

原文
先日手紙さし出し候あとにて箱が一ツある。宿のをかみさんが、もし是は何ンでござりますゾへ、こ〃にわすれた。夫ハさておき今日虎がきて心の竹をかきくどき彼一ツけんを咄し聞候、今すこし御めいわくかけ金でこふとハおもわなだに、御気の毒様にて候。かしこ。十三日〆寺田屋様うめより御直披
現代文
先日の手紙を差し出した後に、宿の女将さんがこれは何ですか?と聞いてきて、気がつくと箱を一つ差し出すのを忘れました。それはさておき、今日は千屋寅之助(海援隊士)が来て、心境を訴えてきて、その一件の話を聞きました。少しばかりお金で迷惑をかけて、こうなるとは思わなかったので、お気の毒さまでした。13日寺田屋様うめより(梅太郎:龍馬変名)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「先日の手紙のあとで、宿の女将に箱を一つ渡し忘れてしまいました。それはさておき、今日は千屋寅之助(海援隊士)が来て胸の内を訴えてきました。少しばかり金で迷惑をかける結果になり、気の毒だった」という、身近な出来事をつづった私信です。十三日付、うめ(才谷梅太郎)の署名。仲間の相談ごとにも心を配る、龍馬の面倒見のよさがのぞきます。

宛先「お登勢」とは

京都・伏見の旅籠「寺田屋」
お登勢が営んだ伏見の寺田屋(現地取材)

お登勢は京都伏見の寺田屋の女将で、龍馬夫妻の恩人でした。龍馬が日々の出来事を気軽に書き送れる、身内のような存在でした。

この手紙が書かれたころ

海援隊士の悩みごとにも耳を傾け、金の面倒まで見ていました。組織の長として、人の世話に追われる日常があったことがうかがえます。志士たちの集団は、金銭や人間関係の悩みとも無縁ではありませんでした。理想を追う裏に、こうした生活の現実がありました。千屋寅之助のような土佐の若者が海援隊に集いました。龍馬は彼らの生活の面倒まで引き受ける、頼れる兄貴分でした。

「虎」は千屋寅之助です

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年二月十三日のものとしています。同じ日にお登勢へもう一通書いていて、そちらでは返事を「薩州 才谷梅太郎」あてで下関の伊藤家へ送ってほしいと頼んでいます。こちらの一通は、置き忘れた箱のことと、「虎」が来て話していったことを書いた、くだけた手紙です。

「虎」について、宮地は注で「千屋寅之助」と明記しています。のちの菅野 覚兵衛のことです。今日虎が来て心のうちをかき口説き、あの一件のことを話していった、これ以上お金で迷惑をかけようとは思っていなかったのに、気の毒なことだ—と書いていて、千屋がお登勢のところで何かの金の工面を頼んでいたことがうかがえます。千屋はこの翌年の三月、生前の龍馬の望みで、お龍の妹の君江と長崎で結婚しました。寺田屋のお登勢はお龍を養女にしていましたから、千屋にとっては義理の母方の家ということになります。「心の竹」は、宮地の注では「心の丈」のことです。

同じころの日本—慶応三年二月

世の中では 将軍となった徳川慶喜は、この年の初めからフランス公使ロッシュの助言を受けて幕政の改革を進めていました。前年の暮れにはフランスから軍事顧問団が横浜に着き、幕府の歩兵・砲兵・騎兵に洋式の訓練を始めています。のちに「伝習隊」と呼ばれる部隊です。老中の役目も分けて、陸軍・海軍・外国・会計などを受け持つ形に改められました。

伏見の寺田屋 宛名のお登勢は伏見の船宿・寺田屋の女将です。京都と大坂を結ぶ淀川の舟運の起点にあたる伏見は、諸藩の人々が行き交う場所で、お登勢のもとにはさまざまな消息が集まっていました。

寺田屋という宿と、慶応三年二月の龍馬

二つの寺田屋事件

伏見の船宿・寺田屋では、幕末に二度、大きな事件が起きています。一度目は文久二年四月、薩摩藩の過激な藩士たちが島津久光の命で討たれた「寺田屋騒動」です。二度目が、慶応二年一月に龍馬が幕府の捕吏に襲われた「寺田屋遭難」でした。京都と大坂を結ぶ淀川の舟運の要にあったこの宿には、諸国の志士が出入りしていました。

連絡の拠点としての寺田屋

龍馬が京坂を離れて下関や長崎で動くようになってからも、寺田屋は龍馬たちへの手紙や伝言の受け渡しの場であり続けました。女将のお登勢は、龍馬の妻・お龍を養女のように扱い、龍馬にとっては京都の母のような存在でした。この手紙で龍馬が返事の宛先を下関の伊藤家と指定しているのは、拠点を下関に移したことをお登勢に知らせるためです。

土佐藩と手を結んだ直後

この年の一月、龍馬は長崎で土佐藩の後藤象二郎と会談し、土佐藩と手を結ぶことになりました。それでも龍馬は、この手紙で「薩摩藩の才谷梅太郎」宛にするよう頼んでいます。幕府の目を避けるため、薩摩藩の名を借りる用心は、なお欠かせなかったのでしょう。

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