坂本乙女(姉) 宛
| 原文 |
| 此度、門為参候て海山の咄御国の咄も聞つくし、誠におもしろく奉存候。然、私の心中などのこらず此の為に咄有之候間、くは敷御聞取可被遣と存候。稽首。正月廿二日龍馬坂本乙様左右直柔 |
| 現代文 |
| この度、門田為之助(土佐藩郷士:九州を探索した)が参り、海や山の話や、国の話などを聞いてまことに面白い。私の心中も残らずこの為之助に話してありますので、詳しくお聞き取りください。正月22日龍馬坂本乙女様直柔(龍馬:変名) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「門田為之助が来て、海や山の話、国の話を聞いて実に面白かったです。私の胸の内も残らず彼に託したので、詳しく聞いてほしい」という、姉への親しみにあふれた手紙です。門田為之助は九州を探索した土佐藩郷士。正月二十二日付。天下を駆ける龍馬が、肉親には心情を隠さず語る、あたたかな一通です。
宛先「坂本乙女(姉)」とは

坂本乙女(おとめ)は龍馬の三歳上の姉です。早くに母を亡くした龍馬を、武芸も学問も仕込んで育て、「坂本の仁王様」とも呼ばれた文武に秀でた女丈夫でした。龍馬が生涯もっとも心を許した肉親で、有名な手紙の多くはこの姉に宛てて書かれています。
この手紙が書かれたころ
天下の政局に身を投じながらも、故郷の姉には胸の内を包み隠さず語りました。志士の顔と、姉を慕う弟の顔の両方がのぞく手紙です。志士たちは各地を探索し、情勢を探り合っていました。門田為之助のような人物が運ぶ「海山の話」も、そうした情報網の一部でした。土佐藩士が九州など各地を歩いて情勢を探るなか、龍馬もその情報の流れの中にいました。郷里とのつながりが、その活動を静かに支えていました。
土佐から来た客に、心のうちを託して
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年一月二十二日のものとしています。このたび門為が来てくれて、海の話も山の話も国の話も聞き尽くして本当に面白かった、私の心のうちは残らずこの者に話しておいたので、詳しく聞き取ってほしい—と、姉の乙女に宛てた短い手紙です。
この年の正月、龍馬は長崎で土佐藩の後藤象二郎と会い、脱藩者と藩とのあいだが改まりつつありました。四月には脱藩の罪が赦され、亀山社中は土佐藩の海援隊へ変わります。そうした時期に、土佐から来た者に自分の考えを残らず話して、姉のもとへ持ち帰らせたわけです。手紙には書けないことを、人の口に託したということでしょう。「門為」が誰なのかは、宮地も注を付けておらず、こちらでも確認できません。土佐に門田為之助という人がいたことは分かっていますが、この手紙と結びつける典拠は見つかっていません。
同じころの土佐と長崎—慶応三年の正月
土佐藩の動き 土佐藩は前年から長崎に「土佐商会」を置き、樟脳や鰹節などの国産品を売って、その代金で汽船や武器を買い入れていました。この年、その実務を任されたのが、のちに三菱を興す岩崎弥太郎です。参政の後藤象二郎は龍馬と手を結ぶことで、龍馬たちの船と人脈を藩の商いに生かそうとしていました。
龍馬の立場 土佐藩と龍馬の関係が改まるのは、この年の春のことです。龍馬は脱藩の罪を許され、四月には土佐藩の外郭の組織として海援隊が発足して、その隊長となりました。故郷の姉・乙女に宛てたこの手紙は、龍馬の立場が大きく変わろうとしていた時期のものです。
慶応三年正月、後藤象二郎との出会い
清風亭の会談
この手紙の十日ほど前、慶応三年一月十三日ごろ、龍馬は長崎の料亭・清風亭で、土佐藩参政の後藤象二郎と会っています。後藤は、かつて土佐勤王党を弾圧した側の人物です。勤王党の同志を失った龍馬にとっては、複雑な相手でした。仲立ちをしたのは、龍馬と旧知の溝渕広之丞らです。この会談をきっかけに、龍馬たちの亀山社中は土佐藩と結びつき、四月には海援隊となります。
長崎の土佐商会
後藤が長崎に来ていたのは、土佐藩の貿易の拠点「土佐商会」(開成館の長崎出張所)を動かすためでした。土佐の産物を売り、船や武器を買う窓口です。のちにこの商会を任されたのが岩崎弥太郎で、海援隊の会計とも深くかかわっていきます。
岡上家に嫁いだ乙女
姉の乙女は、安政三年に典医の岡上樹庵に嫁いでいました。手紙の宛先が「坂本乙様」となっているのは、龍馬にとって乙女がいつまでも坂本家の姉だったからかもしれません。ただし、これは推測です。乙女はこの慶応三年に岡上家と離縁し、坂本家に戻ったとされます。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



