坂本春猪 宛
| 原文 |
| 此つば肥前より送りくれ候ものにて、余程品よろしくと段々申もの御座候。江戸などにてハ古道具やなどほしがり申候なり。何卒御養子のこしニ止り候よふ、希入候。此頃、外国のおしろいと申もの御座候。近々の内、さしあげ申候間、したゝか御ぬり被成たく存候。御まちなさるべく候。かしこ。廿四日龍馬春猪御前 |
| 現代文 |
| この鍔(刀のつば)は肥前(長崎あたり)から送ってきてくれたもので、とても品物がいいとかなんとか申してました。江戸などでは古道具屋などが欲しがるんだろうね。何とぞご養子(春猪の夫:坂本清次郎)の腰にでもつけておやり。この頃は、外国の化粧というものもあるよ。近い内、送りますので少し塗ってみてね。お待ち下さいませ。24日龍馬春猪御前(御前は結婚してるという意味) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「この鍔(刀のつば)は肥前(長崎あたり)から送ってきてくれたもので、品がとても良いそうだ。江戸では古道具屋が欲しがるだろう。養子(春猪の夫・坂本清次郎)の腰にでもつけてやって。近ごろは外国の白粉(おしろい)もあるので、近々送るから塗ってみて」という、姪へのおおらかな贈り物の手紙です。二十四日付。刀の鍔と舶来の化粧品を同じ手紙で贈る、新旧が同居する龍馬らしさが楽しい一通です。
宛先「坂本春猪」とは

坂本春猪は龍馬の姪で、長兄・権平の娘です。夫は坂本家の養子・坂本清次郎。龍馬は郷里の家族をこまやかに気づかいました。
この手紙が書かれたころ
長崎で外国の品にも触れる立場を生かし、郷里の姪に珍しい土産を贈っていました。開明的な龍馬の日常が、ふとのぞく一通です。開港により、長崎には西洋の品々が流れ込み、舶来品が人々の憧れとなっていました。新しい文化が、暮らしのなかへ入り込んでいたのです。郷里の家族へ長崎の品を贈る龍馬。海の向こうの新しさを、故郷の土佐へと運ぶ役目も、知らず知らず果たしていました。
肥前から届いた鍔を、春猪の婿の腰に
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では、本編のあとの「続」の11番「坂本春猪あて(推定、慶応二年秋、二十四日)」として収められています。手紙に書かれているのは「廿四日」だけで、慶応二年秋という時期は宮地の推定です。写真の説明には「高知県立歴史民俗資料館蔵」とあります。原文は「此つば肥前より送りくれ候もの」で、肥前から龍馬のもとへ送られてきた品を、郷里の姪へ回す書き方になっています。
「御養子」は、春猪の婿養子となった清次郎のことです。京都国立博物館が所蔵する慶応三年六月二十四日の乙女・おやべあての長い手紙では、龍馬はこの清次郎の不甲斐なさを嘆いています。おしろいは春猪をからかうときにたびたび出てくる話題で、慶応三年正月二十日の春猪あて(宮地の050番)でも「あかみちやとおしろいにて、はけぬりこてぬり」と冷やかしています。
同じころの日本—慶応二年の秋
世の中では 慶応二年(1866)の秋、幕府は長州との休戦ののち、立て直しを急いでいました。徳川宗家を継いだ慶喜は、すぐには将軍職を受けず、フランスの支援を得て軍制を改める準備を進めます。将軍に就いたのは十二月五日のことでした。一方、この年は米の値段が跳ね上がり、春から夏にかけて大坂や江戸で打ちこわしが続き、武蔵では大規模な一揆が起きるなど、世の中は不穏な空気に包まれていました。
龍馬の家族 姪の春猪は兄・権平の娘で、龍馬がとりわけかわいがった一人です。戦いと商いに明け暮れるさなかでも、龍馬は土佐の家族に贈り物を送り、手紙で冗談を言い合うことを忘れませんでした。
慶応二年の秋、春猪と坂本家の暮らし
婿の清次郎
龍馬が鍔を贈ろうとしている「ご養子」は、春猪の夫の清次郎です。土佐藩士・鎌田実清の次男で、文久三年に坂本家へ婿として入りました。清次郎は春猪の父・権平のはとこにあたります。脱藩した龍馬に代わり、坂本家の将来を担う一人として迎えられた人でした。
二人の娘の母
このころの春猪は、元治元年生まれの長女・鶴井と、慶応元年生まれの次女・兎美を育てていました。龍馬とは八つ違いで、兄と妹のように仲のよい間柄です。外国のおしろいを送るから塗ってみて、という冗談まじりの言葉にも、その親しさが表れています。
戦のあとの長崎で
慶応二年の夏、龍馬は乙丑丸に乗って下関の海戦に加わりました。七月に将軍家茂が亡くなると幕府は兵を引き、九月には停戦がまとまります。そのころ龍馬は長崎にいて、肥前の品や外国の品を手に入れられる立場にありました。高知の家族に品物を送れたのも、港町に暮らしていたからです。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



