溝渕広之丞 宛(50通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

溝渕広之丞 宛

原文
本文溝渕ニ送りし状の草■御覧の為ニさし出ス先日入御聴候小弟志願略相認候間、入御覧候。小弟二男ニ生れ成長ニ及まで家兄に従ふ。上国ニ遊びし頃、深君恩の辱を拝し海軍ニ志あるを以、官請爾来欧心刻骨、其術を事実ニ試とせり。独奈せん、才疎ニ識浅く加之、単身孤剣、窮困資材ニ乏故に成功速ならず、然に略海軍の起歩をなす。是老兄の知所なり。数年間東西に奔走し、屡々故人に遇て路人の如くす。人誰か父母の国を思ハざらんや。然ニ忍で之を顧ざるハ、情の為に道に乖り宿志の蹉躓を恐るゝなり。志願果して不就バ、復何為にか君顔を拝せん。是小弟長く浪遊して仕禄を求めず、半生労苦辞せざる所、老兄ハ小弟を愛するもの故、大略を述。御察可被下候。十一月頓首。坂本龍馬
現代文
(朱書き)これは溝渕広之丞(土佐藩郷士で剣道の同門)に送った手紙の下書きで、ご覧に入れるために差し出します。先日耳に入れた私の思いをしたためたのでご覧下さい。私は二男に生まれ成長するまで兄に従ってきました。江戸へ遊学した時に、君のため、国の為に報いようと決め、海軍を志し、官に願い出て、それ以来粉骨砕身(ふんこつさいしん)努力し、この技術を実践に生かそうとした。いかんせん一人で、知識も浅くおろそかで、単身孤立し、困窮もしていたのですぐには成功せず、けれども海軍を起こす道を歩んだ。これは貴方の知るところですね。数年間東奔西走し、しばしば旧友に会っても、行きずりの人のように振る舞ってきました。人が故郷の父母の事を思わない訳がない。しかるに、忍んでこれを省みないのは、進むべき道や志を、情けのために失敗することを恐れるがためです。志を願いにかけ、それがなせなければ、何のためか、合わせる顔もない。私は長い間あちこち駆け回りどこにも仕えず、半生苦労をしてきたけれども、貴方は私の親友であるので、このようなことを述べる。ご推察下され。11月坂本龍馬

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

剣の同門で土佐郷士の溝渕広之丞へ宛て、自らの半生と志を打ち明けた手紙です。次男に生まれ兄に従って育ったこと、江戸遊学の折に君のため国のために尽くそうと決意し、海軍を志して粉骨砕身努めてきたことを、静かな筆致で振り返っています。龍馬が自分の生き方の根っこを語る、自伝的な色合いの濃い一通です。

宛先「溝渕広之丞」とはどんな人物か

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

土佐藩の郷士で、龍馬と剣術の同門にあたる旧友です。気のおけない同郷の友であればこそ、龍馬は肩肘張らずに自分の来し方と本心を語ることができました。

この手紙が書かれたころ

薩長同盟を成し遂げ、海軍と海運の組織を率いる立場になっていたころの龍馬です。ここに至るまでの苦闘を振り返りつつ、なお一人では力が及ばぬと謙虚に記すところに、龍馬の人となりが表れています。第二次長州征伐が幕府の敗北に終わり、時代は倒幕へと大きく傾いていました。各地の志士が、それぞれの信じる道で新しい国のかたちを模索していた時期です。勤王党を失った土佐藩は沈黙していましたが、脱藩した龍馬は藩の外で大きな仕事を成し遂げていました。同郷の友への手紙には、土佐を離れてなお故郷を思う龍馬の心がにじみます。

家族にも「別紙」で届けられた志の下書き

冒頭の「本文溝渕ニ送りし状の草■御覧の為ニさし出ス」は、宮地佐一郎編『龍馬の手紙』で朱筆と注記された書き込みで、この一通が溝渕へ送った手紙の下書きであることを示します。本文には「十一月」としかなく、宮地は慶応二年十一月と比定しています。同書が収める十二月四日付の兄・坂本権平ら一同宛の手紙には、長崎で江ノ口の人・溝渕広之丞に行き会い、再三たずねられて自分の存念を書き送ったこと、そして「其私の存念ハ別紙に指上候」とあり、この下書きが故郷への便りに添えられたことが分かります。

同じ手紙によると、龍馬は長崎で蒸気船の将・武藤早馬を見かけながら、国へ帰れと言われるのを恐れて素知らぬ顔で通り過ぎました。溝渕はその武藤にもこの書状を内々に見せ、武藤は大いに喜んだといいます。本文の「故人に遇て路人の如くす」を裏づける出来事です。十一月十六日付の溝渕宛の手紙では、手に入りにくい騎銃の周旋を「先生」と呼んで頼んでおり、龍馬が溝渕を頼りにしていた様子もうかがえます。

同じころの亀山社中—船を失った秋

亀山社中の苦しい秋 慶応二年(1866)の後半、亀山社中は苦しい時期を迎えていました。五月には社中の船ワイル・ウエフ号が五島の沖で沈み、池内蔵太らが亡くなります。社中が動かしていたユニオン号も、四境戦争のあと長州に引き渡されました。船を失った社中は仕事が減り、隊士たちの給金にも事欠くようになったと伝えられます。

土佐への道 こうしたなかで龍馬に近づいてきたのが、長崎に出ていた土佐藩でした。宛名の溝渕広之丞は土佐藩士で、龍馬と土佐藩の重役・後藤象二郎とを結ぶ橋渡し役となります。社中の行き詰まりは、翌年の土佐藩との提携、そして海援隊の誕生へとつながっていきました。

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