| 石井伊之助 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 不明 | ||
永倉新八の「同士連名記」にのみ記載されている隊士です。
目次
石井伊之助をもっと深く——「同志連名記」にだけ残る名前
この隊士について伝わるのは、永倉新八の「同志連名記」に名があること、それだけです。出身も、入隊時期も、最期も分かりません。
「同志連名記」とは何か
永倉新八が書き残した隊士の名簿です。新選組の名簿には複数の系統があり、それぞれ載っている人が違います。
- 『英名録』——島田魁の遺品。慶応元年六月ごろ、百五十名の名と出身地。霊山歴史館蔵
- 慶応三年六月の名簿——幕臣取り立てのときのもの
- 永倉新八の「同志連名記」——本人の記憶と手控えによるもの
- 『戦友絵姿』——箱館戦争後
この四つに載る顔ぶれは、一致しません。だから「新選組の隊士は何人いたのか」という問いに、確定した答えがないのです。当サイトが四百五十六名としているのも、ひとつの数え方にすぎません。
「一つの名簿にしかない」ということの意味
石井伊之助のように一つの系統にしか出てこない名前は、二通りに読めます。
ひとつは、短期間しか在籍しなかったので他の名簿の作成時期に居合わせなかったという読み方。もうひとつは、永倉の記憶違いか、別名の重複ではないかという読み方です。
同じ問題は石井清之進にもあります。あちらは墨染事件で近藤勇を守って討死したと伝わりますが、根拠は永倉の記録だけで、しかも井上新左衛門と同一人物ではないかと指摘されています。「石井」姓で永倉の記録にしか出てこない人物が二人いる——ここは慎重に扱うべきところです。
それでも名前は残りました
永倉新八は明治九年、板橋に近藤勇の供養塔を建てています。その碑の側面には百十名が刻まれました。晩年には新聞記者にだんだら羽織の由来まで語り残しています。
この人が書き留めることをしなければ、石井伊之助という名は消えていました。新選組の隊士名簿とは、そういう危うさの上に立っています。
新選組隊士全456名情報

