| 明光丸 | |||
| 藩名 | 紀州藩 | ||
| 藩主 | 徳川慶富 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 不明 | ||
| 写真 | 絵図 | ||
■ 詳細
紀州藩が外国より購入した輸送蒸気船。坂本龍馬の海援隊が使っていた伊呂波丸(いろは丸)と瀬戸内で衝突し、伊呂波丸は沈没しました。そのあとの談判は長崎で行われ、紀州藩が土佐藩へ賠償金を支払って決着しています。

所属した紀州藩と幕末の動き
この軍艦・明光丸を運用したのは、御三家の一つ紀州藩(和歌山藩・徳川家)です。明光丸は慶応三年(1867)、坂本龍馬の海援隊が用いた「いろは丸」と瀬戸内海で衝突し、これを沈没させました(いろは丸事件)。御三家の大型艦が小藩の借り物の船と起こした事故は、その後の賠償交渉でも話題を呼びます。
紀州藩は徳川御三家として本来は幕府を支える立場でしたが、幕末には藩士・津田出や陸奥宗光らによる先進的な藩政・軍制改革で知られました。十四代将軍・徳川家茂を出した家でもあります。戊辰戦争にあたっては新政府に恭順し、改革で培った実力を明治へと引き継ぎました。
幕末軍艦一覧リスト
原名はバハマ、十三万八千五百ドルの船でした
明光丸はイギリスのストックトンで造られた船で、原名をバハマといいます。進水は千八百六十二年一月二十四日、総登録トン数は八百八十八トン、百三十五馬力から百五十馬力で、速さは十一ノット。紀州藩がグラバーから買ったのは元治元年十二月で、値は十三万八千五百ドルでした。ただし支払いは何度も延ばされ、慶応二年二月の時点でもまだ残っていたといいます。
衝突の相手は、いろは丸です
慶応三年四月二十三日の午後十一時ごろ、備中の六島のあたりで、明光丸は海援隊が使っていた伊呂波丸(いろは丸)と衝突しました。伊呂波丸は大破し、明光丸が曳いていく途中、翌朝に鞆の浦の南、宇治島の沖で沈んでいます。死んだ者はなく、乗っていた人は全員が明光丸へ移りました。明光丸の船長は高柳楠之助です。なおこの時期、坂本龍馬の組織はすでに亀山社中ではなく海援隊に改まっています。改組は慶応三年四月の初めでした。
「日本初の国際法による裁判」という言い方には、留保が要ります
この一件は日本ではじめて万国公法によって裁かれた裁判だ、とよく語られます。ただし近年の研究はそこに疑いを向けています。まず、これは長崎奉行所の判決ではなく談判、つまり示談の交渉でした。海援隊からは坂本龍馬と長岡謙吉、紀州藩からは高柳楠之助と勘定奉行の茂田一次郎が出て、土佐藩参政の後藤象二郎が後ろ盾となり、薩摩藩の五代才助が仲裁に入って決まっています。そして実際に条文として持ち出されたのは万国公法ではなく、文久三年にイギリスが定めた海上衝突予防規則の第十三条と第十四条でした。もっとも、龍馬の側が万国公法によって判断すべきだと主張したとする研究もありますので、まったく無関係というわけでもありません。ここは断定を避けておきます。
八万三千五百二十六両が、七万両になりました
龍馬がはじめに求めたのは一万四百五十両あまりでした。慶応三年五月十五日から長崎で談判が再開され、五月二十九日に紀州藩が支払いに同意します。決まった額は八万三千五百二十六両と百九十八文。船代がおよそ三万五千六百三十両、積荷代が四万七千八百九十六両という内訳でした。これがのちに七万両へ減らされ、十一月七日に支払われています。龍馬はその八日後、十一月十五日に近江屋で殺されました。なお昭和六十三年から続いた海底の調査では、海援隊が積んでいたと主張した銃火器は見つかっていません。積荷代の根拠には疑いが残ります。
明光丸は、明治十七年まで走りました
事件のあとも、この船は長く使われています。明治二年に紀ノ国屋萬蔵らへ貸し出されて神戸と横浜を結び、明治三年に払い下げられました。その後は日本国郵便蒸気船会社、郵便汽船三菱会社へ移って須磨浦丸と名を変え、明治七年の台湾出兵では徴用されています。最後は明治十七年十月二十一日、横浜から長崎へ向かう途中、三浦半島の東岸で共同運輸の山城丸と衝突して壊れました。いろは丸を沈めた船が、十七年後に自分も衝突で終わったことになります。

