| ビーテルランデルク | |||
| 藩名 | 津藩 | ||
| 藩主 | 藤堂高獣 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 80馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||

長26間・幅3間5尺・250トン。
情報がほとんど残されていません。
津藩が持っていた艦船
一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている津藩の艦船は二隻で、内訳は帆船が一隻、その他が一隻です。
- ビーテルランデルク(この記事)/スクリュー汽船
- 神風丸/スクーナー船
目を引くのは、蒸気船ではなく帆船が中心だという点です。蒸気船は高く、燃料と機関の手当ても要ります。帆で動く船を揃えるところから始めた藩も、少なくありませんでした。
幕末の津藩は、鳥羽・伏見の戦いでの動きがよく知られています。当初は旧幕府方として布陣していましたが、新政府軍が優勢になると一転して寝返り、味方だったはずの旧幕府軍に砲門を向けました。この「藤堂藩の裏切り」は戦局を大きく左右したといわれます。時流を見極めて生き残りをはかった、外様大藩の現実的な選択でした。
日本の名に改められなかった船です
幕末に外国から買った船は、たいてい日本の名に改められました。順動丸も翔鶴丸も、原名は別にあります。ところがこの船は、ビーテルランデルクという原名のまま、船の一覧に載っています。この名の綴りがどうだったのかも、どこの国の船だったのかも、わかっていません。津藩がいつ、どこから、いくらで買ったのかも分かりません。長二十六間・幅三間五尺で二百五十トン。換算すると長さおよそ四十七・三メートル、幅およそ七メートルで、長さと幅の比が六・八対一という、かなり細長い船です。川や内海を走る汽船によくある形をしています。
慶応四年一月六日、この藩が戦の流れを変えました
船のことは分からなくても、津藩の幕末ははっきりしています。鳥羽伏見の戦いのとき、津藩ははじめ、薩長と会津・桑名の私闘には加わらないと言って中立を保っていました。ところが慶応四年一月五日の夜、勅使の四条隆平が梶原台場へ出向き、津藩軍を率いる藤堂采女を説き伏せます。そして翌一月六日、山崎の関門にいた津藩の兵が突然砲門の向きを変え、淀川の対岸にいた旧幕府軍を撃ちました。橋本には土方歳三の率いる新選組の主力を含む本隊が布陣していたところです。横から撃たれた旧幕府軍は大混乱に陥り、戦う気を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へ退きました。外様でありながら徳川家に恩を感じていた藤堂家にとって、苦しい決断だったと伝えられます。
藤堂高猷と、二百十二万両の借金
このときの藩主は藤堂高猷です。文化十年二月九日の生まれで、文政八年二月二十九日から明治四年六月二十八日まで藩主を務め、明治二十八年二月九日、生まれた日と同じ日に八十三歳で亡くなりました。佐幕の立場で公武合体を進めた人ですが、幕政に深く関わることはありませんでした。凶作と地震が相次ぎ、藩の借金は明治になるまでに二百十二万両に達しています。船一隻の素性が分からないのも、この藩の台所を思えば無理のないことかもしれません。
ビーテルランデルクを船の型と持ち主から読む
ビーテルランデルクの機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。
当サイトで紹介している津藩の船は、このビーテルランデルクを含めて2隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ津藩の船には、神風丸(スクーナー船)があります。
持ち主の津藩—鳥羽伏見での「寝返り」
津藩の決断
津藩(藤堂家二十七万石余り)は、藩祖・藤堂高虎以来、徳川家に重く用いられてきた藩です。ところが慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いでは、山崎の砲台を守っていた津藩の兵が、戦いの三日目に新政府側の求めに応じて旧幕府軍に砲撃を加えました(戊辰戦争、各藩の選択)。
その後
背後から撃たれた旧幕府軍は総崩れとなり、この寝返りは「さすが藤堂」と皮肉られました。主君を何度も替えた高虎になぞらえたのです。津藩はその後、新政府軍として東北へも兵を送りました。



