奥殿藩/松平家1万6千石:松平乗謨 信濃国佐久郡田野口へ移転し龍岡五稜郭建造のため廃藩

【藩名】
奥殿藩

【説明】
第7代藩主となった奥殿藩主「松平乗利」は有能な名君で、文武を奨励して演武場、藩校・明徳館などを創設しています。天保4年(1833年)の凶作時には、窮民に対する救済も万全に行なうなど、他の歴代藩主と比較して賞賛されるほどの藩政を行なっています。

乗利の跡を継いだ「松平乗謨(のりかた)」の時代に幕末を迎えます。幼少より学問を好んだ乗謨は、海陸御備向を経て、文久3年(1863年)1月に大番頭に、同年8月には若年寄に抜擢されました。

文久3年(1863年)、乗謨は信濃国への陣屋移転・新築許可を徳川幕府から得ます。奥殿藩の領地の大部分が信濃国佐久郡田野口にあり移転を届け出ました。三河国の領民の多くはこの移転に反対して嘆願書を差し出すなど騒動が生じています。こうして奥殿藩は廃藩となりました。

【この藩の最後の殿様が、のちに日本赤十字社をつくりました】

松平乗謨、維新後の名を大給恒(おぎゅうゆずる)といいます。嘉永五年(1852年)に十四歳で家督を継ぎ、文久三年(1863年)八月に若年寄、慶応元年(1865年)五月に陸軍奉行、慶応二年(1866年)六月に老中格、そして同じ年の十二月に幕府の陸軍総裁となりました。二十代でここまで上がっています。

ただし一つお断りしておきます。「幕府最後の陸軍総裁」と書かれることがありますが、これは正確ではありません。乗謨は慶応四年(1868年)正月二十三日に陸軍総裁を辞し、そのあとを継いだのが勝海舟です。

陣屋の移転は文久三年九月十一日のことでした。奥殿藩一万六千石は領地の大部分が信濃国佐久郡にあり、三河の奥殿は手狭だったのです。三河の領民の多くはこの移転に反対して嘆願書を差し出しています。移った先が田野口藩で、慶応四年五月に龍岡藩と改めました。

そこに築かれたのが龍岡城、いわゆる龍岡五稜郭です。元治元年(1864年)三月に着工し、慶応二年十二月に石垣と土塁、慶応三年四月に城内の御殿ができました。ただし乗謨の公務が忙しく石垣の工事が簡略化されるなど、未完成の部分も多く残ります。星形の城は函館と、この龍岡の二つだけです。規模は函館のおよそ半分。乗謨が西洋の築城術に関心を寄せていたためとされますが、実戦の要塞ではなく藩主の居館として設計されました。昭和九年に国の史跡に指定されています。

慶応四年二月、乗謨は大給と姓を改めて信濃へ帰り、幕府との決別を表明して新政府に恭順します。謹慎処分を受けましたが、四月には新政府の命で北越戦争へ出兵し、その功で謹慎を解かれました。

維新後の仕事のほうが、いまでは有名かもしれません。明治十年(1877年)五月、西南戦争のさなかの熊本で、佐野常民とともに博愛社の設立を願い出て許されました。これが明治二十年に日本赤十字社となります。勲章制度の整備にも長く携わり、明治二十八年に賞勲局総裁。明治四十三年、七十二歳で世を去りました。

奥殿陣屋の跡は岡崎市奥殿町にあります。書院は移転のとき龍渓院へ移されて庫裏として使われ、昭和六十年にここへ戻されました。京風の「蓬莱の庭」が復元され、藩主の墓所も残ります。入園は無料です。

【場所・アクセス・地図】

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