深溝藩/板倉家1万5千石:板倉重昌 島原の乱にて戦死 嫡子重矩が藩庁を三河中島藩へ移転したため廃藩

【藩名】
深溝藩

【説明】
慶長19年(1614年)7月、山城国において1,000石を領していた「板倉重昌」は深溝にて1,230石を加増されました。その後も家康の側近として活躍し、家康死去の時点では5,230石を領する大身の旗本となっていました。

寛永元年(1624年)、重昌の父である「板倉勝重」が死去すると、兄の「板倉重宗」は弟の重昌に対して6,610石の所領を分与し、重昌は合わせて1万1,800石余りを領する大名となり、深溝に陣屋を構え深溝藩が立藩しました。

重昌は領内に検地を実施して、1万5,000石の出来高を幕府に報告し、これが認められたことから深溝藩は1万5,000石となります。寛永14年(1637年)、「島原の乱」鎮圧の総大将として幕府軍を率いて出陣したが重昌は戦果を挙げられず、新たに「松平信綱」が増援として送られました。

これを知ると、重昌は自ら無謀な突撃を行い翌年元旦に戦死してしまいました。家督は嫡子「板倉重矩」が継いだが、重矩は程なくして藩庁を三河中島藩に移したため深溝藩は廃藩となりました。

目次

板倉重昌——島原で死んだ上使

深溝藩の名を歴史に刻んだのは、初代の板倉重昌の最期でした。

寛永十四年(1637年)十一月九日、重昌は島原の乱を鎮めるための上使に任じられて九州へ下ります。十二月に二度、原城を攻めますが落とせません。そこへ、後任の上使として松平信綱が送られるという知らせが届きました。面目を失うことを恐れた重昌は、総攻撃を決意します。

寛永十五年(1638年)正月元日、重昌は原城へ攻めかかり、一揆勢の鉄砲の名手であった三会村の金作に眉間を撃ち抜かれて戦死しました。享年五十一。墓は長崎県島原市の江東寺にあります。原城の三の丸には重昌の碑が立ちますが、これは戦死から百六十年後の寛政十年(1798年)、島原藩家老の板倉勝彪がようやく建てたものでした。碑文を書いたのは林鳳岡です。

重昌の死後、嫡子の板倉重矩は一万石を継いで居所を三河中島へ移し、寛永十六年(1639年)に深溝藩は終わります。

幕末の深溝は旗本板倉家の領地だった

深溝城の跡は愛知県額田郡幸田町大字深溝字城山にあり、現在は工場の敷地となっています。南側の道路沿いに石碑と案内板が立ち、土塁が一部残っているといいます。幸田町郷土資料館には深溝城の模型が展示されています。

藩がなくなったあと、この深溝城跡は旗本となった板倉重直の陣屋として使われました。重昌の子の系統です。深溝村は幕末まで、この旗本板倉家の領地として続きました。天領でも西尾藩領でも岡崎藩領でもありません。

本光寺——島原の殿様が三河に眠る理由

幸田町深溝には、曹洞宗の瑞雲山本光寺があります。大永三年(1523年)、深溝松平家の初代である松平忠定が開いた寺で、同家の菩提寺です。

おもしろいのは、深溝松平家が肥前島原藩六万五千石の大名として幕末まで続いたにもかかわらず、歴代当主の遺体が島原からはるばる三河のこの寺へ運ばれて葬られたことです。五代の忠利が、主君がいずかたへ所替えになろうとも遺骸は必ず当山に葬るべし、と遺言したためと伝わります。八代の忠俔が島原で没したときに領内へ葬る案が出ても、この遺言が守られました。

西の廟所に初代から五代と十一代、東の廟所に六代から十代と十二代から十九代の当主が眠ります。東廟所の墓はすべて神社の社殿をかたどった石殿型で、近世の大名墓としてもきわめて珍しいかたちです。この墓所は平成二十六年(2014年)三月十八日、「島原藩主深溝松平家墓所」として国の史跡に指定されました。参道と境内には一万本ほどの紫陽花が植えられ、あじさい寺としても知られています。

なお幕末の島原藩主は松平忠和でした。水戸藩主の徳川斉昭の十六男で、徳川慶喜の異母弟にあたります。文久二年に末期養子として家督を継ぎ、長州征討には幕府方として加わりましたが、戊辰戦争では新政府に恭順しました。その忠和もまた、深溝に眠っています。

【場所・アクセス・地図】

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