武蔵松山藩の歩み
「豊臣秀吉」の「北条征伐」後に「徳川家康」が関東入国すると、天正十八年(1590年)に「松平家広」が武蔵松山一万石を与えられて武州松山藩を立藩しました。のちに三万石に加増されました。しかし、家広は慶長六年(1601年)、25歳の若さで亡くなります(病死とされますが、自害とする説もあります)。その後を異父弟の「松平忠頼」が継ぐが、遠江国浜松城に五万石にて加増転封し、松山藩は廃藩となりました。
幕末の松山には、前橋藩の陣屋がありました
武蔵松山藩は天正十八年(1590年)に成立し、慶長六年(1601年)ごろには廃藩となっています。藩としての歴史はごく短いものでした。
ですがこの土地は、幕末になってもう一度、政治の舞台になります。
百年ぶりに前橋へ戻った藩の、置き土産
前橋藩は明和四年(1767年)、前橋城の再建を断念して藩庁を川越へ移していました。それから百年後の幕末、藩主松平直克のもとで前橋へ戻ります。
このとき問題になったのが、武蔵国に残された約六万二千石の所領でした。管理する拠点が要る。そこで慶応三年(1867年)、松山に陣屋が置かれました。
幕末の動乱期です。土塁と城塀の外側に堀をめぐらせた、堅牢な構えだったと伝えられます。
この松山陣屋跡は、昭和三十六年(1961年)に東松山市の指定文化財(史跡)となりました。範囲は丸広デパートのあたりから市役所の北端、市役所の東端から松山第一小学校の正門付近までとされています。
名前の紛らわしさについて
幕末に「松山藩」といえば、伊予松山藩(十五万石・松平家)か備中松山藩(板倉家)を指します。武蔵の松山藩は、そのころにはもう存在していません。
家広は深溝ではなく、桜井の松平家
初代 松平家広は桜井松平家の六代です。国立国会図書館のレファレンス回答は『東松山市の歴史』中巻、『三百藩藩主人名事典』、『桜井物語』を典拠に「天正十八年に武蔵国松山に分封され、松山城主となった/一万石」と記しています。深溝松平家は家忠・家信の系統で、忍城や上代に関わる別の家です。松平の分家は数が多いので、ここは取り違えやすいところです。
面積の半分が空堀
松山城跡があるのは比企郡吉見町大字南吉見字城山。市野川がつくった低湿地に囲まれた比企丘陵の先端に立っています。吉見町は本曲輪・二ノ曲輪・三ノ曲輪・曲輪四という呼び方で、大規模な空堀・切り落とし・竪堀が良好に残ると説明します。別の資料は本丸・二の丸・春日丸・三の丸の梯郭式とし、空堀が主要部の面積の半分余りを占めるとしています。曲輪の呼び名は資料によって違いますが、堀の多さは共通しています。
争奪の歴史は激しいものでした。天文六年(1537年)に北条氏綱の攻撃を難波田憲重らが撃退、天文十四年の河越夜戦のあと北条氏康が掌握、太田資正が一時奪回、永禄四年に上杉謙信が奪って太田資正を城代に置き、永禄六年に北条氏康と武田信玄の連合軍が攻略。以後は北条配下の上田氏が在城し、天正十八年に前田利家・上杉景勝らが攻略しました。
大正十四年に県史跡となり、平成二十年三月二十八日に国史跡「比企城館跡群」へ追加指定されました。菅谷館跡(昭和四十八年五月二十六日指定)に松山城跡・杉山城跡・小倉城跡を加えた四城の構成です。
吉見百穴とは一キロ隣
吉見百穴は吉見町大字北吉見にあり、大正十二年三月七日の国史跡です。横穴は二百十九基。ヒカリゴケの生育地は国の天然記念物です。昭和十九年から二十年には地下軍需工場が造られ、その範囲は松山城から岩粉坂まで直線約千三百メートルとされます。松山城跡(南吉見)と吉見百穴(北吉見)は同じ比企丘陵の東縁にあって、一キロ強しか離れていません。
幕末の支配は、川を挟んで違っていた
東松山側は前橋藩領が中心で、慶応三年に置かれた松山陣屋が明治三年の時点で六万二千四百四十五石余、比企郡を中心に十郡百五十七か村を管轄しました。明和四年以降は同じ松平大和守家の川越藩領だった土地です。
一方、吉見側(旧横見郡)は幕府領が中心でした。木村飛騨守支配所、江川太郎左衛門支配所(韮山代官所)、福田所在衛門支配所が管轄し、四十二村とされます。市野川を挟んで、支配のかたちが違っていたことになります。
町の主軸は日光脇往還(千人同心街道)で、札の辻で鴻巣道・小川道・熊谷道が交わりました。市は五と十の六斎市で、大正期まで続いています。松山陣屋跡は昭和三十六年三月八日の市指定史跡で、市指定の「松山古地図」(昭和三十二年)と「松山陣屋関係古文書」(昭和三十七年)もあります。
家康の甥たちと、囲碁が招いた刃傷
多劫姫の二人の子
家広と忠頼の母は、徳川家康の異父妹・多劫姫です。多劫姫は先に桜井松平家の松平忠正に嫁いで家広を産み、次に忠正の弟の忠吉に嫁いで忠頼を産みました。二人は母を同じくする異父兄弟で、ともに家康の甥にあたります。忠頼の正室は織田有楽斎の娘とされます。
関ヶ原と浜松5万石
関ヶ原の際、忠頼は会津出陣に従い、家康の西上中は岡崎城を守ったとされます。戦後は犬山城の城番などを務め、慶長6年(1601)に5万石で浜松へ移りました。日本歴史地名大系は、武蔵松山城の廃城を慶長5年としています。
水野忠胤邸の事件
慶長14年(1609)9月、忠頼は親族の水野忠胤の江戸屋敷での茶会のあと、家臣どうしの囲碁をめぐる口論の仲裁に入り、刺されて亡くなりました。享年28。忠胤は切腹となり、浜松5万石は没収されます。家督を継いだ長男の忠重は当時7歳で、武蔵深谷で8千石を与えられ、元和8年(1622)に大名へ復帰しました。この家は各地を移った末、摂津尼崎藩4万石で幕末を迎え、明治元年に「桜井」へ改姓、明治17年に子爵となっています。
考察:一局の碁が家の運命を変えた
家康の甥として順調に出世していた忠頼が、他家の家臣の口論で命を落とす。泰平に向かう時代にも、武士の世界には刃傷の危うさが残っていました。それでも幼い遺児が家を立て直し、幕末まで続いたことに、桜井松平家の粘り強さを感じます。



