矢作藩/三浦家1万石:三浦正次 下野壬生藩に移封のため廃藩

矢作藩 三浦家1万石 最後の藩主 三浦正次
目次

矢作藩の歩み

豊臣秀吉の「北条征伐」後、関東に移封された「徳川家康」は、下総国分氏の居城「下総矢作城(大崎城)」に「鳥居元忠」を四万石で入封させました。これが矢作藩の立藩です。

慶長五年(1600年)に勃発した「関ヶ原の戦い」の前哨戦「伏見城攻防戦」で元忠は戦死してしまいました。家康は戦後、元忠の武功を賞して嫡子「鳥居忠政」を陸奥磐城平藩に加増移封されたため、矢作藩は廃藩となり天領となりました。

元和四年(1618年)、「三浦正次」がこの地にて七百八十石の旗本として入封し、次第に加増を受けて石高も五千石にまで昇進します。寛永七年(1630年)、正次は五千石の加増を受けて一万石の大名となったため再び「矢作藩」が再立藩されました。寛永十六年(1639年)、正次は下野壬生藩に移封となったため矢作藩は廃藩となりました。

矢作四万石は、伏見城で主のいない領地になりました

鳥居元忠がこの地を与えられたのは天正十八年(1590年)、四万石です。慶長四年(1599年)には「矢作縄」と呼ばれる検地を行い、八十四か村でおよそ四万石を確定させました。その翌年、元忠は伏見城に籠もります。松平家忠・松平近正・内藤家長らと、矢作などから徴発した千八百人が守り手でした。降伏の勧告に来た使者を斬って送り返し、十三日の攻防のすえ、慶長五年(1600年)八月一日、鈴木重朝との一騎討ちで討死しました。享年六十二です。

矢作城、いまは大崎城と呼ばれる城の跡は、香取市大崎にあります。鎌倉のはじめに千葉常胤の五男・国分胤通が築いた城です。四つの郭が南北に連なり、岩盤を掘り抜いた深い堀切が見どころで、香取市の史跡に指定されています。藪が深いので、歩くなら冬をおすすめします。

三浦正次が寛永十六年(1639年)に下野壬生藩へ移ったあと、矢作に藩は戻りません。『旧高旧領取調帳』にもとづく調査では、幕末の本矢作村と大崎村はいずれも幕府領・旗本領・与力給知の入り組みで、維新後は宮谷県の管轄となりました。佐倉藩領ではありません。ちなみに佐原村のほうは佐倉藩領でした。

戊辰戦争の房総では、旧幕府の撒兵隊が慶応四年(1868年)四月十二日に木更津へ上陸し、閏四月三日に市川・船橋で新政府軍と戦っています。ただしこれらはいずれも房総の西岸、東京湾側での出来事です。佐原や小見川など利根川の下流域で戦闘があったことを示す記録は、見つかっていません。

佐原を領した佐倉藩は、藩主堀田正倫が鳥羽伏見のあと上京して徳川家の存続を訴えたものの軟禁され、国元では家老が新政府の命に応じています。利根川べりの商都は、戦火にさらされずに済んだことになります。

家光の側近「六人衆」の一人・三浦正次

二度目の矢作藩を立てた三浦正次は、三代将軍・徳川家光の幼いころからの側近です。家光が将軍になると重く用いられ、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・阿部重次・太田資宗とともに「六人衆」と呼ばれる若い側近の一人として、のちの若年寄にあたる役目を務めました。七百八十石の旗本から十年あまりで一万石の大名に上ったのは、家光の信頼の厚さを物語っています(同じ六人衆の太田資宗については下野山川藩を参照)。

矢作を出た三浦家のその後—美作勝山藩

正次の家は矢作から下野の壬生へ移り、その後、日向の延岡、三河の刈谷、西尾と国替えを重ねて、明和元年(1764)に美作の勝山二万三千石に落ち着き、ここで明治を迎えました(美作勝山藩)。幕末の勝山藩は、譜代でありながら周辺の佐幕同盟から抜けて新政府に従っています。下総の利根川べりの一万石から始まった家光の側近の家は、中国山地の城下町で徳川の時代の終わりを迎えたことになります。

伏見城の籠城と矢作の人々

最初の矢作藩主・鳥居元忠が伏見城に籠もったとき、守り手のなかには矢作など領内から集められた人々もいました。伏見城の落城で、矢作の領民の多くも元忠とともに命を落としたと考えられます。元忠の子孫は、その後、壬生藩主として幕末を迎えています(能登下村藩の項を参照)。矢作は、のちに壬生藩主となる二つの家—鳥居家と三浦家—がともに通り過ぎた土地でもありました。

場所・アクセス・地図

  • URLをコピーしました!
目次