大輪藩/土井家1万石:土井利直 継嗣問題で減封の上廃藩 旗本となる

大輪藩 土井家1万石 最後の藩主 土井利直
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大輪藩の歩み

古河藩主として有名な「土井利勝」の五男「土井利直」は正保元年(1644年)九月、父の遺領から五千石を相続します。万治元年(1658年)九月、兄の「土井利隆」の子「土井利重」が宗家を継ぐと五千石を分与され(兄の利隆から分与されたとする辞典もあります)、合わせて一万石の所領となり大名として列したため、岡田郡大輪村に「大輪藩」を立藩しました。

利直は延宝五年(1677年)三月に死去します。死去する前に兄「土井利房」の次男である「土井利良」を養嗣子として迎えようとしたが、一族に相談せずに願い出たので幕府はこれを認めなかったです。このため大名としての家名は断絶し、大輪藩は廃藩となりました。

しかし、父「土井利勝」の功績を考慮されて、所領を減封の上で五千石の旗本として存続を許されました。

五千石の旗本として、土井家は幕末までこの村にいました

延宝五年(1677年)に土井利直が亡くなり、養子の話が粗忽と咎められて大輪藩は改易されました。ただし利良への家督相続そのものは認められ、五千石の旗本として家は残ります。

その家が幕末まで続いたことは、はっきり確かめられました。『水海道市史』の江戸時代の領主一覧に、大輪村の領主として土井氏、総知行高五千石、大輪村内四百八十七石七斗、知行地は下総国岡田郡と武蔵国葛飾郡・埼玉郡内とあります。幕末の大輪は旗本土井家の知行所でした。ただし当主の名までは確認できません。

このあたりの支配の細かさには目を見張ります。水海道市域では旗本の知行所が全所領の約五割九分を占め、五十七家が領主として分かれていました。幕府が意図的に領地を分散させた結果、一つの村に複数の領主がいるのが当たり前でした。大輪藩が一万石でようやく大名になれた土地柄が、ここからも見えてきます。なお大輪陣屋の跡については、所在地も現況も石碑の有無もわかっていません。常総市の指定文化財の一覧にも土井家関係の史跡はありません。

いっぽう幕末のこの地域を語るなら、水運です。寛永年間の鬼怒川開削で鬼怒川と利根川が直結し、水海道は江戸と下総・下野・会津方面を結ぶ水運の中継地として栄えました。元禄三年(1690年)には鬼怒川筋に十五か所の河岸があり、二百五十俵から三百俵を積む高瀬船が通いました。同じ年の幕府の公定運賃では、水海道から江戸まで三十三里で、百石につき三石二斗。米、〆粕、干鰯、塩、炭、藍玉、油、酒、醤油、茶などが行き交い、河岸問屋の商圏は結城・筑波・猿島の各郡に及びました。

幕末の騒乱はすぐ北で起きています。元治元年(1864年)七月七日、天狗党が下妻の多宝院に置かれていた幕府軍の本陣を夜襲し、寺は焼け落ちました。再建されたのは明治四十年です。ただし、この戦火が南隣の大輪まで及んだことを示す記録は見つかっていません。

父・土井利勝—家康の子とも噂された大老

大輪藩の土井利直の父、土井利勝は、二代将軍秀忠の側近として幕府の基礎をかためた人物です。秀忠より六歳年上で、秀忠が生まれるとすぐにそば近くに仕えて、老中、のちに大老となりました。下総の古河十六万石の大名として、江戸の北の守りも預かっています。あまりに重く用いられたため、実は家康の落とし子ではないかという噂まで生まれたほどでした(真偽は確かめられていません)。

利勝には多くの男子があり、遺領は分けられて、本家のほかに複数の土井家が立てられました。利直の大輪藩も、その分家の一つです。

本家・古河藩の土井家と「雪の殿様」

利勝の本家はその後、唐津などを経て宝暦十二年(1762)に古河へ戻り、明治を迎えました。江戸後期の古河藩主・土井利位(としつら)は、大坂城代として天保八年(1837)の大塩平八郎の乱の鎮圧にあたり、のちに老中首座となった人です。一方で利位は、顕微鏡を使って雪の結晶を二十年にわたって観察し、そのスケッチを『雪華図説』にまとめたことで知られ、「雪の殿様」と呼ばれました。その雪の結晶の図柄は「雪華模様」として江戸の人々のあいだで流行しています。

利位を支えた家老・鷹見泉石は、蘭学に通じ、海外の地図や資料を集めた学者でもありました。泉石を描いた渡辺崋山の肖像画「鷹見泉石像」は国宝になっています。大輪の分家が旗本として静かに続いた一方で、古河の本家は、開国前夜の日本で西洋の知識に向き合う家になっていたのでした。

家綱のそば仕えと「作法の不備」

5歳で将軍家に拝謁

土井利直は寛永18年(1641)、5歳で家光に拝謁し、世子・家綱のそば仕えとなりました。慶安3年(1650)に西の丸奥小姓、慶安4年には長兄・利隆の代理として古河藩の藩政を担ったとされます。万治元年(1658)に大名となった際、従五位下・信濃守に叙任され、延宝4年(1676)には奏者番になりました。

跡継ぎの事情

男子は3人いましたが、長男・次男は早世し、三男は病弱で幼少でした。養子に望んだ利良(利房の次男)もまだ4歳だったとされます。日本人名大辞典は減封の理由を「養子届け出の作法の不備」と書いており、5千石が削られたのは死後のことでした。

陣屋跡と大輪の村

陣屋跡は鬼怒川右岸のわずかな高まりにあり、県道123号沿いとされます。廃藩後の大輪村は土井家と幕府が分けて治め、土井家は幕末まで一部の領主でした。宗任神社に伝わる戦国期の文書には「大輪之郷 八拾貫文」と書かれています。

考察:手続きひとつで藩が消える時代

将軍の側近として育った人物でも、養子の届け方ひとつで家の格を失う。大輪藩の終わり方は、江戸前期の幕府が大名の相続をどれほど厳しく管理していたかをよく示していると思います。

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