越前松岡藩の歩み
正保二年(1645年)、福井藩主「松平忠昌(結城秀康の子)」が死去し、跡を次男の「松平光通」が継ぎました。このとき、光通は弟の「松平昌親」に吉江藩二万五千石を分与し、兄である「松平昌勝」に松岡藩五万石を分与しました。
松岡藩の初代藩主「松平昌勝」は元禄六年(1693年)に死去し、その跡を三男「松平昌平」が継ぎました。しかし、享保六年(1721年)に福井本家の当主「松平吉邦」が死去すると、昌平が本家を継いで福井藩主となり、将軍「徳川吉宗」から一字を拝領し「宗昌」と名乗りました。そして松岡藩は廃藩となり、所領は福井藩に吸収されました。
廃藩のあと—分家が本家を継いだので消えた藩
松岡は越前国吉田郡、いまの福井県吉田郡永平寺町松岡です。永平寺のお膝元にあたります。
この藩の終わり方は変わっています。正保二年(1645年)に福井藩主・松平光通が兄の昌勝に五万石を分けて成立したのですが、享保六年(1721年)、昌勝の三男・昌平が福井本家を継いだため、松岡藩は廃藩となり所領は福井藩に併合されました。潰れたのではなく、分家が本家を吸収する形で消えたわけです。
藩庁は松岡館、または松岡陣屋と呼ばれました。九頭竜川南岸の河岸段丘の上にあります。城主格ではないため城は許されず、陣屋でした。
幕末の吉田郡は全域が福井藩領です。松平春嶽の藩といえば分かりやすいでしょうか。ただし松岡の地そのもので幕末に何が起きたかはわかっていません。春嶽・橋本左内・由利公正と松岡を直接結ぶ史料も見つかっていません。
いまも残るのが「松岡十二曲がり」です。旧勝山街道が町なかで直角に何度も折れ曲がる「鍵の手」の道筋で、藩政時代の大通りがそのまま残っています。町の内からも外からも攻めにくくするための構えでした。
ほかに藩館跡の「お館の椿」、承応二年(1653年)に初代藩主・松平昌勝の命で建てられた天龍寺が残ります。松岡公園には古墳群もあります。
兄でありながら本家を継げなかった松平昌勝
松岡藩の初代・松平昌勝は、福井藩主・松平忠昌の長男でした。ところが母の身分の違いから、跡継ぎには弟の光通が立てられ、昌勝は分家の松岡藩主となります。
その光通は、延宝二年(1674)に自ら命を絶ちました。跡継ぎの男子に恵まれず、家中の争いにも悩んでいたといわれます。光通は遺言で、もう一人の弟・昌親(吉江藩主)を後継に指名しました。兄の昌勝は再び本家を継ぐ機会を失い、これに強く反発します。福井藩はこのあと家中が割れ、後継をめぐる混乱が続きました。
昌勝自身は本家を継げませんでしたが、四十七年後の享保六年(1721)、その三男・昌平が福井本家を継いで宗昌となり、松岡藩は本家に吸収されます。父が得られなかった本家の座を、子が手にしたことで藩が消えたのです。
芭蕉が別れを惜しんだ天龍寺
昌勝が承応二年(1653)に建てさせた天龍寺は、松平家の菩提寺であると同時に、俳諧の名所としても知られています。元禄二年(1689)、『おくのほそ道』の旅の途中の松尾芭蕉がこの寺に立ち寄り、金沢から付き添ってきた門人の立花北枝とここで別れました。その別れを詠んだ「物書て扇引さく余波(なごり)哉」の句碑が境内に立っています。藩がまだあったころの松岡に、芭蕉は足をとめていたのです。
同じころの日本—由井正雪の慶安の変
浪人の反乱 越前松岡藩が立藩して間もない慶安四年(1651)、三代将軍家光が亡くなった直後、軍学者の由井正雪が、職を失った浪人たちを集めて幕府を倒す計画を立てました。慶安の変です。計画は事前に漏れ、正雪は駿府で自害しました。
政治の転換 この事件のころ、大名家の取りつぶしが続いて、江戸には主を失った浪人があふれていました。幕府はこの事件をきっかけに、大名が跡継ぎを決めずに亡くなった場合でも家を残しやすくするなど、浪人を増やさない政治へと方針を改めていきます。
福井藩主を三人出した分家—越前松岡藩と十二曲がり
菊姫を妻にした昌勝
越前松岡藩主・松平昌勝は、福井藩主・松平忠昌の長男でしたが、本家を継げず分家を立てた人です。家格は親藩です。正室は伊予松山藩主・松平定行の三女・菊姫でした。昌勝は乗馬、漁、鵜飼い、水泳、相撲、和歌を好んだと伝わり、本家を継げなかった不満から、たびたび福井藩に口を出したともいわれます。
松岡から福井藩主が三人
松岡藩からは、福井藩主が三人出ています。長男の綱昌(延宝四年・1676年に家督)、六男の吉邦、三男の昌平(宗昌)です。このうち綱昌は側近を殺すなどの異常な行動があり、貞享三年(1686年)に「乱心」として蟄居させられました。福井藩は取りつぶされず、二十五万石に半減されます(貞享の半知)。綱昌の失脚は対立する派閥が仕組んだという説もあります。
片山良庵がつくった町
松岡の陣屋と町割りを手がけたのは、軍学者の片山良庵です。慶安元年(1648年)、芝原の地を「松岡」と改め、承応二年(1653年)に工事を始めました。三方を土塁と堀で囲み、わざと折り曲げた道が「十二曲がり」の由来です。良庵には水軍の兵法書『舟軍巻』もあります。昌勝が祖母の菩提を弔うために建てた天龍寺には、昌勝の石塔と像を安置する御像堂があり、芭蕉の碑も立っています。
分家は、本家の予備だった
本家を継げなかった殿様の家から、三人も本家の主が出る。分家は、本家に何かあったときの「控え」だったことがよくわかります。曲がりくねった十二曲がりを歩くと、守りの町割りに込めた昌勝の思いと、本家への複雑な気持ちが重なって見えてきます。



