幕末の藩を知るうえで、机上の資料だけでは味わえないものがあります。実際にその地に立ち、城跡の空気を吸い、案内板の一文字を目で追うこと——今回は、上総国(現在の千葉県富津市)に残る佐貫城跡(さぬきじょうあと)を訪ねました。ここは、幕末に阿部家一万六千石が藩庁を置いた佐貫藩の居城です。実際に歩いて撮った写真とともに、その歴史をたどります。
佐貫城はどこにあるのか
佐貫城は、房総半島の中西部、東京湾に近い上総国天羽郡佐貫(現・千葉県富津市佐貫)に築かれた城です。海にほど近く、街道の要衝でもあったこの地は、古くから軍事的に重視されてきました。戦国時代には、上総に勢力を張った真里谷武田氏や、安房の里見氏らがこの城をめぐって争ったと伝えられます。
登城口に立つと、丸太に力強く彫られた「佐貫城址 入口」の標柱が出迎えてくれます。そこから石段を上っていくと、木々に囲まれた郭(くるわ)の跡が静かに広がっていました。
城主のうつりかわり——案内板が語る歴史
現地の案内板には、佐貫城の歴代城主が刻まれています。それをたどると、この城が幕末に至るまで、いかに多くの手を経てきたかがわかります。

案内板によれば、天正年間には内藤家長・政長が城主を務め、その後、元和年間に松平忠重、寛永年間に松平勝隆・重治と続きます。元禄年間には、五代将軍徳川綱吉の側近として権勢をふるった柳沢保明(吉保)が一時領し、この頃に佐貫城はいったん廃城となりました。城が一度その役目を終えていたというのは、意外に知られていない事実です。
阿部家一万六千石と佐貫藩
廃城となっていた佐貫城が、藩の居城として復活するのが宝永七年(1710年)のことです。三河刈谷から阿部正鎮(あべまさたね)が一万六千石で入封し、佐貫藩を立てました。以後、阿部家はこの地に八代にわたって続き、幕末・維新期まで佐貫の地を治めます。そして明治四年(1871年)五月、廃藩置県の流れのなかで佐貫城はふたたび——そして今度こそ最後に——廃城となりました。
戦国の争乱から、譜代大名たちの入れ替わり、一度の廃城を経て、阿部家一万六千石の居城として幕末を迎える——一つの城の歩みに、そのまま日本の近世史が凝縮されています。佐貫藩がどのような藩だったのか、歴代藩主や幕末の動向は、当サイトの佐貫藩のページでも詳しくまとめています。


幕末の佐貫藩 ― 旧幕府方に与して謹慎した阿部正恒
佐貫城を居城とした佐貫藩は、宝永七年(一七一〇年)に阿部正鎮(あべ まさたね)が三河刈谷から入封して以来、明治維新まで続いた阿部家一万六千石の譜代藩でした。最後の藩主となった阿部正恒(あべ まさつね)は、戊辰戦争のさなか、房総半島に展開した旧幕府軍の歩兵部隊「撒兵隊(さっぺいたい)」へ援軍を送ったため、のちに新政府から責任を問われ、謹慎処分を受けています。館山湾を挟んですぐ近くの請西藩・林忠崇や、対岸の安房勝山藩と同じく、房総の小藩は旧幕府軍の動きにいや応なく巻き込まれていったのです。恭順を選んだ多くの藩とは対照的に、佐貫藩は最後まで旧幕府に近い立場をとった一藩でした。
▼ 房総で旧幕府軍とともに戦った藩々はこちら
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現地を歩いて感じたこと
案内板の縄張り図には、本丸・二の丸・三の丸がはっきりと描かれていました。実際に歩いてみると、その郭を隔てる土塁や堀の跡が、草に覆われながらも確かに残っているのがわかります。天守や櫓こそ失われていますが、地形そのものが城の記憶を今に伝えているのです。
訪れた春の日、登城口の脇では八重桜が満開でした。かつて藩士たちが上り下りしたであろう石段を、花びらが静かに彩っている——資料の文字だけでは決して伝わらない、その場に立ってこそ感じられる時間の重なりがありました。城跡めぐりの醍醐味は、まさにここにあります。
アクセス(所在地)
佐貫城跡は千葉県富津市佐貫にあります。最寄りはJR内房線の佐貫町駅で、駅から徒歩圏内。遺構を巡る際は、足元の悪い箇所もあるため歩きやすい靴がおすすめです。
まとめ
佐貫城跡は、戦国の争奪から譜代大名の交替、一度の廃城を経て、阿部家一万六千石・佐貫藩の居城として幕末を迎えた城でした。現地の登城口の標柱や案内板、そして今も残る郭の地形は、その長い歴史を静かに物語っています。幕末の藩を「現地で」感じたい方に、ぜひ訪ねてほしい場所です。佐貫藩の詳しい歴史は全藩情報のページとあわせてご覧ください。

