仁正寺藩(西大路藩)の歩み
元和六年(1620年)、「市橋長政」が近江国蒲生、野洲両郡と河内国内に合わせて二万石を与えられたことから仁正寺藩が立藩されました。長政は元和八年(1622年)一月、幕命により「市橋長吉」に二千石を分与したため所領は一万八千石となりました。長政は「徳川家光」のもとで奉行として功を挙げています。
慶安元年(1648年)に長政が死去すると、後を長男の「市橋政信」が継ぐが、このとき弟の「市橋政直」に千石を分与したため一万七千石となりました。政信は「徳川家綱」「徳川綱吉」のもとで功績を挙げています。
最後の藩主・市橋長和は、幕末の動乱の中で国を守る備えとして火薬づくりや武芸の奨励に力を入れました。文久二年(1862年)四月二十八日、藩の名を仁正寺藩から西大路藩に改めています。はじめは幕府寄りでしたが、鳥羽伏見の戦いからは新政府軍の側に立ちました。明治天皇が東京へ向かう際には見送りや京都の警護にあたり、その働きを認められています。
明治二年(1869年)の版籍奉還で長和は西大路藩知事となり、その二年後の廃藩置県で西大路藩は廃されました。その後、西大路県・大津県を経て滋賀県に入っています。
改称は幕末より前だった—文久二年の「西大路」
この藩については、まず名前の話を整理しておきます。仁正寺藩が西大路藩と改められたのは、明治になってからではなく文久二年(1862年)四月二十八日のことでした。仁正寺という音が西大路に通じるためだと説明されています。つまり幕末の動乱が本格化する前から、この藩は「西大路藩」だったわけです。
伯耆八橋から越後三条、そして近江へ
市橋家は美濃の出で、関ヶ原のあと伯耆の八橋(矢橋)で二万一千三百石を領しました。元和二年(1616年)には越後三条へ四万一千三百石で加増移封されますが、元和六年(1620年)に当主の長勝が世継ぎなく没して家は改易されます。そのとき甥の長政が近江仁正寺に二万石を与えられて名跡を継ぎ、以後この地で幕末まで続きました。石高はのちの二度の分知で一万七千石になっています。伯耆から越後、そして近江へ—ひとつの家が日本海側を横断するように移ってきたことになります。
火薬を作り、早くに上洛した
幕末の藩主は市橋長和です。天保十四年(1843年)に先代の隠居を受けて家督を継ぎました。幕末の動乱に備えて火薬の製造と武芸の奨励に力を入れた人で、当初は幕府寄りの立場でしたが、慶応三年(1867年)十二月二十二日に上洛して新政府への支持を伝えています。鳥羽伏見の戦いの十日ほど前で、かなり早い判断でした。明治元年には東京への奠都にともなって天皇の守護と京都の警備を務めています。
長和は明治十五年(1882年)正月に六十二歳で亡くなりました。明治十七年(1884年)七月の華族令のときにはすでに世を去っていたため、子爵を授けられたのは養子の市橋長寿です。藩校は日新館で、寛政八年(1796年)の設立とされます。
土塁と、移された建物
陣屋の跡は滋賀県蒲生郡日野町西大路、日野川の右岸にあります。東西五十一間、南北五十間ほどの規模で、いまは土塁と堀の一部、井戸の跡が残り、土塁の上には市橋家にゆかりの神社が建っています。なお中野城(日野城)との関係については、日野町は「市橋家は城外に陣屋を構えたので中野城は二度と城として使われなかった」と説明し、ほかの資料は日野城の一角に陣屋を構えたとしていて、説明が分かれています。
建物のほうは各所へ移されました。清源寺の書院は陣屋の藩邸を移したものと伝わり、経王寺の山門は東木戸門の移築、ほかに勘定部屋や武家屋敷も残っています。京都の相国寺の塔頭へ御殿が移されたという話もあります。菩提寺は清源寺で、歴代の墓所が現存します。廃藩後は西大路県となり、大津県を経て明治五年(1872年)に滋賀県へ入りました。
道三に仕えた家から、漢籍を湯島聖堂に納めた大名へ
美濃の市橋家と、関ヶ原の福束城攻め
市橋家は美濃国池田郡市橋郷の出で、大和源氏の流れと伝わります。戦国期の市橋長利は斎藤道三・義龍・龍興に仕えたのち、織田信長の側近になったとされます。その子の長勝は豊臣秀吉から美濃今尾一万石を与えられ、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍につきました。このとき長勝は松ノ木城主の徳永寿昌とともに、西軍についた丸毛兼利の福束城を夜襲で落としています。仁正寺藩の家は、この美濃での働きから始まっていました。
陣屋は蒲生氏の城跡の北に置かれた
仁正寺の陣屋は、中世の終わりに蒲生氏の本城だった中野城跡の北側に置かれました。広さは東西五十一間・南北五十間と記録されています。江戸の神田柳原に上屋敷、本所に下屋敷を持つほか、京都の清水坂にも屋敷を構え、貞享二年(1685年)には大津に蔵屋敷を買っています。一万七千石の小藩ながら、京・大津とのつながりを大事にした家でした。
七代・市橋長昭と、国立公文書館に残る漢籍
この藩でいちばん名を残した藩主は、七代の市橋長昭です。寛政八年(1796年)に藩校「日新館」を開き、学問好きの大名として知られました。長昭は集めた蔵書の中から宋版・元版の漢籍三十部を選び、文化五年(1808年)に湯島聖堂へ納めています。そのうち二十一部(重要文化財三部を含む)は、いまも国立公文書館に伝わっています。小藩の殿様の蔵書が、国の宝として残っているのです。
最後の藩主は庄内藩主の子だった
最後の藩主・市橋長和(のちに長義と改名)は、出羽庄内藩主・酒井忠器の四男で、天保十四年(1843年)に養子に入った人物です。戊辰戦争では新政府側につきましたが、実家の庄内藩は最後まで新政府軍と戦いました。実の兄弟の家と養子先が、敵と味方に分かれたことになります。長和は明治十五年(1882年)に六十二歳で亡くなり、墓は東京・西日暮里の南泉寺にあります。市橋家は明治十七年(1884年)に子爵となりました。
家格と江戸城の席
市橋家は外様大名で、江戸城では柳間に詰めていました(譜代とする事典も一つあります)。最後の藩主が譜代の名門・庄内酒井家から養子に入ったことは、外様の小藩が有力な家とのつながりを求めた例といえます。
石高ではなく、学問で名を残した殿様
一万七千石の藩主が、宋や元の時代の書物を集めて湯島聖堂に納める。仁正寺藩の市橋長昭の話は、小藩の殿様が「石高ではなく学問で名を残す」道を選んだ例として、とても印象に残ります。いま国立公文書館にある漢籍は、近江の小さな陣屋町から江戸へ渡った宝物です。



