三上藩の歩み
嘉永五年十二月(1853年)、第5代藩主「遠藤胤統」は江戸城西の丸造営の功績を賞されて二千石の加増を受けました。幕末の万延元年(1860年)には城主格に格上げされています。胤統は文久三年(1863年)に隠居し、後を孫の「遠藤胤城」が継ぎました。
胤城は講武所奉行に任じられ、長州征伐が勃発すると多くの功績をあげました。「徳川慶喜」が将軍になると奏者番に任じられて将軍側近となり佐幕派としての立場を貫きました。このため、慶応四年(1868年)一月には新政府軍から朝敵と見なされて領地を召し上げられてしまいました。
しかし謝罪恭順した結果、同年五月には罪を許されて領地を戻され、翌年六月には三上藩知事に任じられました。胤城はその後明治三年(1870年)四月に藩庁を和泉国吉見に移したため三上藩は廃藩となり、以後は吉見藩となりました。
近江三上の遠藤家
三上藩は、近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲市)に置かれた一万二千石の藩で、藩主は遠藤家、三上山のふもとに陣屋を構えました。ムカデ退治の伝説で名高い三上山を望む、風光明媚な地を治めた小藩です。
佐幕を貫いた末に
幕末の藩主・遠藤胤城は、将軍・徳川慶喜の側近を務めた縁もあって佐幕の立場を貫きました。このため新政府に一時近江の所領を没収されましたが、同年五月に返還され、のちに和泉国の吉見へ移って吉見藩を立てています。多くの小藩が早々に恭順するなかで、旧主への義理を通そうとした姿勢が際立つ藩です。
陣屋の門は寺の山門として残り、藩は和泉の吉見へ移りました
三上陣屋の表門は、湖南市の常永寺にあります
Wikipediaによれば、三上陣屋の跡そのものは残っていません。ただし表門は滋賀県湖南市岩根の常永寺の山門として移築されて現存し、裏門も民家へ移されたとされています(撤去されたという情報もあります)。陣屋跡には案内板もなく、現地には天保義民の碑と保民祠が建っています(攻城団)。近江天保一揆の記憶が、藩の陣屋の記憶より強く残っている土地です。
立藩の年も資料で分かれ、ブリタニカ国際大百科事典は元禄十一年(1698年)の入封、日本大百科全書は1700年(元禄十三年)の転封としています。
移った先は和泉国日根郡吉見村です
Wikipediaによれば、藩庁の移転は明治三年(1870年)四月十四日で、申し出は四月十二日付でした。移った先は和泉国日根郡吉見村、いまの大阪府泉南郡田尻町吉見で、春日神社の境内にあたります。和泉国内の草高は一万二千石でした。
吉見藩は明治四年七月十四日の廃藩置県で廃藩となり、吉見県が置かれ、同年十一月二十二日に堺県へ編入されました。藩としての期間は一年三か月ほどです。
朝敵とされ、四か月後に領地が戻りました
最後の藩主遠藤胤城は天保九年(1838年)六月五日に生まれ、文久三年(1863年)十月七日に祖父胤統の隠居を受けて遠藤家六代となりました。講武所奉行と奏者番を務めています(日本人名大辞典)。
Wikipediaによれば、慶応四年一月二十七日に恭順の姿勢を示さなかったことで新政府に領地を没収され、同年五月二十九日に返還されました。上の段の「朝敵と見なされて領地を召し上げられた」のは、この出来事です。
胤城は明治十一年正月に祖先の東(とう)姓に改め、明治十七年七月八日に子爵となりました。明治四十二年(1909年)十一月九日に七十二歳で亡くなっています。近江の三上から和泉の吉見へ、そして県へ。佐幕を貫いた小藩の最後は、慌ただしい移動の連続でした。
遠藤家の先祖—郡上八幡城と古今伝授の東氏
三上藩の遠藤家は、もとは美濃の郡上を治めた一族です。郡上には鎌倉時代から千葉氏の流れをくむ東(とう)氏がいて、室町時代の東常縁は和歌の奥義「古今伝授」を宗祇に伝えた歌人として知られます。遠藤家はこの東氏の家臣から身を起こし、戦国時代の遠藤盛数が東氏に代わって郡上の主となって八幡山に城を築きました。これがいまの郡上八幡城のはじまりです。遠藤家の歴代藩主が名に「胤」の字を用いるのは、東氏・千葉氏とのつながりを示すものとされます。
盛数の子・遠藤慶隆は関ヶ原の戦いで東軍につき、郡上八幡二万七千石の大名として旧領に戻りました。
郡上から近江三上へ
ところが元禄五年(1692)、郡上藩主の遠藤常久が幼くして亡くなり、遠藤家は跡継ぎを失います。本来なら断絶するところでしたが、幕府は遠藤家の血を引く旗本の家から胤親を迎えさせ、一万石の大名として家名を残しました。その後、元禄十一年(1698)ごろ近江国野洲郡の三上に移ったのが三上藩です。郡上には代わって井上家、金森家、さらに青山家が入り、幕末の郡上藩(青山家)へと続いていきます。

