坂本 龍馬【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

坂本 龍馬
出身 土佐藩
職名 隊長

坂本龍馬は誰もが知る有名な歴史上の人物で、大政奉還の影の立役者であり、薩長同盟の立役者でもあります。勝海舟が幕府の許可を得て運営していた神戸海軍塾が取りつぶしとなった後、龍馬ら土佐脱藩浪士達は行く場をなくし途方に暮れていました。しかし、海舟の紹介もあり、薩摩藩の斡旋で長崎に亀山社中を立ち上げました。日本で最初の会社と呼ばれることの多い組織です。

戦時は海援隊として活動し、平時は亀山社中として貿易や海運業を営むというものでした。龍馬はこの海援隊の隊長であり、亀山社中の社長でもありました。実際に幕長戦争には軍艦を率いて戦ってもいます。海運業のほうでは船を失うなど様々ないきさつがあり中々軌道にのらませんでした。おしくも鳥羽伏見の戦い前に龍馬は暗殺されてしまい、その後の海援隊は「長岡謙吉」を代理隊長として戊辰戦争を歩みました。

坂本 龍馬【海援隊士 幕末】

参考資料:Wikipedia日本語版「坂本龍馬」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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目次

海援隊を率いた幕末の風雲児

坂本龍馬は土佐藩の郷士の家に生まれ、脱藩して各地を巡るなかで勝海舟に師事し、海軍と国際情勢に目を開かれました。やがて長崎で貿易と海運を担う結社「亀山社中」を立ち上げ、これがのちに土佐藩の外郭団体「海援隊」へと発展します。海援隊は単なる武力集団ではなく、商業・海運・人材育成を通じて新しい国のかたちを模索した、当時としては先進的な組織でした。

薩長同盟と大政奉還

龍馬の最大の功績は、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩を仲介し、倒幕へと向かう薩長同盟の成立を助けたことです。また、武力衝突を避けつつ政権を朝廷へ返上する大政奉還の実現にも大きく関わったとされます。新しい国家構想を示した「船中八策」も、龍馬の名とともに語られます。

近江屋事件

しかし、新時代を目前にした1867年(慶応三年)十一月、龍馬は京都の近江屋で何者かに襲われ、盟友・中岡慎太郎とともに落命しました。享年33。既存の枠にとらわれない発想と行動力で時代を動かした龍馬は、今なお幕末で最も愛される英雄の一人です。

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亀山社中・海援隊の隊士一覧—龍馬がつくった「会社」に集まった人びと

亀山社中と海援隊は、同じ組織の別名ではありません

この二つはひと続きに語られがちですが、後ろ盾も、龍馬自身の立場も違っていました。亀山社中ができたのは慶応元年の閏五月で、長崎を拠点に、薩摩藩の保護と長崎の豪商小曽根家の援助を受けて動いています。このころの龍馬は脱藩したままの浪人でした。薩摩からは隊士一人につき月三両二分の給金が出ていて、慶応二年十月の龍馬の手帳には、その領収証のひな形と受け取る七人の名が書かれています。龍馬自身のほか、菅野 覚兵衛、白峰 駿馬、陸奥元次郎、沢村惣之丞らの名が並びます。

海援隊になったのは慶応三年四月です。長崎へ来た土佐藩の参政後藤象二郎と会って脱藩の罪が赦され、同時に土佐藩から海援隊長に任じられました。後ろ盾が薩摩から土佐へ移り、資金も土佐商会から月三両が出るようになります。浪人の集まりが藩の外郭団体になった、ということです。隊が解散したのは慶応四年閏四月二十七日、土佐藩の命令によるもので、そのときの隊長は長岡 謙吉に替わっていました。

「日本初の株式会社」という言い方について

亀山社中を日本で最初の株式会社と呼ぶ言い方が広く通っていますが、これは学術的に確かめられた位置づけではありません。長崎市の公式の説明も「日本で初めての商社といわれる」と伝聞の形で書いていますし、百科事典の類はいずれも「株式会社」という言葉を使っていません。出資と利益の分配という仕組みがどこまで整っていたのかを示す史料がないからです。新しい形の組織だったこと自体は動きませんので、当サイトでは「会社」という言い方にとどめています。

船中八策も、そのまま龍馬の作とは言えなくなりました

長崎から京へ向かう船の中で後藤象二郎に示したとされる八か条についても、近年は見方が変わっています。八か条がいまの形にまとまったのは明治になってからで、龍馬が船中で書いた文書としては確認できない、という説が有力です。知野文哉『「坂本龍馬」の誕生』(平成二十五年)がその代表になります。龍馬が新しい政権の形を練っていたこと自体は同時代の手紙からたどれますので、構想がなかったという話ではありません。完成された八か条をそのまま龍馬の作とすることが難しい、ということです。

いろは丸事件も、語られ方が検討されています

慶応三年四月、紀州藩の明光丸と衝突して沈んだ伊呂波丸の賠償交渉は、万国公法を持ち出して大藩をねじ伏せた一件として語られてきました。ところが近年の研究は別の見方を示しています。龍馬らが示したのは国際法そのものではなく外国人から聴き取った意見にとどまり、当時の海上衝突予防規則に照らせば海援隊の側にも落度があったという指摘です。積荷とされたミニエー銃四百挺も、昭和六十三年以降の潜水調査では見つかっていません。いっぽう賠償請求額の「八萬三千五百貮拾六両百九拾八文」が紀州藩の史料に残り、最終的に七万両へ減額されたことは確かめられます。龍馬の最期については【現地取材】坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地にまとめました。

亀山社中・海援隊のメンバー一覧(隊士五十四人) ›

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