伊勢林藩の歩み
「織田信包」の長男「織田信重」は、慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で徳川家康率いる東軍に与したため、林一万石の所領を安堵され、林藩を立藩しました。しかし実権は父の信包が握っていました。その信包が「大坂冬の陣」直前に72歳で死去すると、遺言により家督は三男の「織田信則」が後を継ぐこととなりました。
これに兄の信重が不満をもって幕府に訴えるが、父の遺言と証文があったことから訴えは「僻事」とされ、慶長二十年(1615年)閏六月二十九日に改易となり、林藩は廃藩となりました。元号が元和に改まる半月ほど前のことです。
廃藩のあと—信長の弟の城下は、お伊勢参りの通り道になった
林は伊勢国奄芸郡林、いまの三重県津市芸濃町林です。この藩を立てたのは織田信包—織田信長の弟にあたる人物でした。
慶長二十年・元和元年(1615年)に廃藩となります。信包の死後、三男の信則が家督を継いだことに長男の織田信重が不満を持って家康に訴えたのですが、父の遺言と証文があったため「不届き」とされ、所領を没収されました。
なお藩庁についても「林殿町城」と「林城山城」の二つの城跡があり、どちらが藩庁だったかはっきりしません。また幕末の林村がどこの領地だったかも、わかっていません。隣の椋本・楠原・忍田・雲林院はいずれも津藩領なので、林も津藩領だった可能性が高いのですが、確証はありません。
この土地の幕末を作っていたのは伊勢別街道です。関宿の東追分で東海道から分かれ、芸濃町を南下して津へ向かう道で、京都方面からのお伊勢参りの人々で賑わいました。各地の参宮講の旅宿がいまも残り、参宮講社の寄進による三重県下最大の常夜燈が立っています。最も古い常夜燈の銘は元禄五年(1692年)で、大坂と江戸の商人組が奉献したものです。椋本の宿には旅籠が二十軒ほどありました。
そして幕末にこの地で確かに起きたことがひとつあります。慶応二年(1866年)、駒越五良が私財を投じて横山池を造りました。疫病の流行が治まるようにという願いからで、いまも駒越翁彰功碑が建っています。
藩の歴史が消えたあと、村の歴史だけが石になって残っている、という土地です。国の天然記念物である椋本の大椋、文化二年建立の仁王経塔なども残ります。
信長の弟・織田信包という人
林藩の実権を握っていた織田信包(のぶかね)は、信長の弟です。伊勢を攻めた信長の命で、中伊勢の長野氏に養子に入り、のちに安濃津城(いまの津城)の主として伊勢の中部を治めました。天正元年(1573)に浅井長政が滅んだあと、妹のお市の方と三人の娘(茶々・初・江)を引き取って保護したのも信包だったとされます。
信長の死後は豊臣秀吉に仕えましたが、文禄三年(1594)に領地を大きく減らされて近江へ移されます。その後、丹波の柏原で三万六千石を与えられ、晩年は大坂城で姪の茶々(淀殿)とその子・秀頼のそばにいました。慶長十九年(1614)七月、大坂冬の陣の直前に大坂城で亡くなっています。豊臣と徳川の最後の戦いを見ずに世を去ったことになります。
家督争いのあとの柏原、そして幕末
信包の遺言で家を継いだ三男の信則は柏原藩主となりましたが、この家は慶安三年(1650)に跡継ぎがなく絶えました。兄の信重が林で改易されてから三十五年後のことです。
その柏原には、元禄八年(1695)、信長の次男・信雄の流れをくむ織田家が大和宇陀から移ってきて、ここで明治を迎えました。幕末の柏原藩は、慶応四年(1868)の戊辰戦争で新政府側について山陰道鎮撫総督に従っています。信包の家が消えた丹波の地で、別の織田の家が徳川の時代の終わりを迎えたのでした。
信重という人—用水争いを裁いた城主と、斯波家の妻
信長の甥として秀吉に仕えた
林藩主・織田信重は、信長の弟・織田信包の子です。父とともに羽柴秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いに加わり、九州攻めには父の名代として出陣しました。伏見城の工事も分担しています。藩の居所は伊勢国奄芸郡林村、いまの三重県津市芸濃町林でした。村の中を伊勢別街道が通っていた交通の要所です。
用水争いの調停と、ただ一つ残る文書
文禄五年(1596年)、信重は志登茂川の井堰をめぐる村どうしの用水争いを、領主として調停したと伝わります。また慶長十一年(1606年)に加太村へ出した伝馬の駄賃の定めが残っていて、「織田民部」の署名があります。林城主としての信重の文書で、いまに伝わるのはこれだけとされています。林村には「林殿町城」と「林城山城」の二つの城跡があり、林城がどちらを指すのかは定まっていません。
旧守護家の娘を妻に
信重の妻は、かつての尾張守護・斯波家の当主だった斯波義銀(のちの津川義近)の長女とされます。信長の一族が、尾張の旧主の家と縁を結んだことになります。信重の三男・長相は、妻の実家の津川家と同じく熊本藩細川家に召し出され、子孫も代々細川家に仕えたとされます。藩は消えても、血筋は九州で続いていきました。家格や江戸城での席は、わかっていません。
旧主の家と新しい主の家をつないだ一代
斯波家の娘を妻にし、秀吉に仕え、家康の時代に改易される。織田信重の一生は、守護、織田、豊臣、徳川と主役が入れ替わった時代を、そのまま映しています。用水争いを裁いた城主の文書がたった一枚だけ残っているという事実に、小さな藩の記録の残りにくさと、それでも残った一枚の重みを感じます。
伊勢林藩をもっと詳しく
いつ、何石で始まった藩なのか
林藩の始まりは、実ははっきりしません。江戸時代前期の伊勢の地誌には、天正12年(1584年)ごろに信重が林城に入り1万石を領したとあります。一方で、文禄3年(1594年)春に伏見城の工事の功によって1万6000石で入ったとする記述もあります。江戸幕府がまとめた大名・旗本の系譜は、秀吉に仕えて1万石とだけ記しています。さらに、改易されたときの所領を3万石とする記録まであり、「1万石の林藩」という姿も確かなものとはいえません。
訴えから改易まで、閏6月の6日間
改易までの動きは、慶長20年(1615年)の閏6月に集中しています。前年の7月に父の信包が72歳で亡くなり、織田家の家督と丹波柏原の遺領は、16歳の三男・信則が継ぎました。信包と信重はもともと仲が悪かったとされます。
大坂の陣が終わると、信重はこの相続を不服として家康に訴えました。閏6月23日、幕府が信則に事情を聞くと、相続は父の遺言によるもので、証文もそろっていることがわかります。そして6日後の閏6月29日、父の遺言があるのに弟を訴えたのは「僻事」であるとして、信重は所領を取り上げられました。元号が慶長から元和に改まる7月13日の、ほんの少し前のことです。
同じころ、明暗が分かれた織田の一族
大坂の陣のあと、織田の一族の行方は大きく分かれました。信長の次男・信雄は、大和国と上野国にあわせて5万石を与えられ、大名に返り咲きます。上野の所領は四男の信良に与えられ、その家はのちに出羽の天童藩として明治を迎えました。大和の所領は五男の高長の家が継ぎ、宇陀松山藩となります。
信長の弟・長益(有楽斎)は大坂の陣のあとに隠居し、子の長政と尚長に1万石ずつが分けられて、芝村藩と柳本藩が生まれました。どちらも幕末まで続いています。同じ信長の弟の家でありながら、信包の長男・信重は兄弟の争いで所領を失いました。一族が新しい大名家を得ていくその時期に、林藩は消えたのです。
信重の子どもたちのその後
信重には4人の男子と2人の女子がいました。長男の子は京都・妙心寺の塔頭、大嶺院の住職となった慈澤蔵主で、大嶺院には信重の妻の実家・津川家の位牌も伝わっています。娘の一人は、陰陽道の家として知られる土御門家の泰重に嫁ぎました。土御門神道を唱えた土御門泰福の母はこの娘だとされますが、これには異説もあります。三男の長相が熊本藩細川家に仕えたことと合わせ、信重の血筋は寺や公家、九州の藩へと分かれて続いていきました。
動員兵力の目安
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされる「1万石あたり235人」を林藩の1万石にあてはめると、十人単位でおよそ240人です。林藩はこの規定ができるより前に消えた藩で、規定そのものも案にとどまり発布されなかったとする説がありますが、1万石の大名の規模を知るひとつの目安になります。



