菰野藩の歩み
藩祖は「土方雄久」の長男「土方雄氏」です。雄氏は織田信雄、豊臣秀吉に仕えて伊勢菰野に一万石を領していましたが、慶長4年(1599年)に徳川家康暗殺事件に巻き込まれて所領を没収され、常陸国太田に追放となりました。しかし「関ヶ原の戦い」直前にその罪を許され、伊勢・近江国にて一万二千石の所領を与えられて菰野に陣屋を構えました。そして菰野藩が立藩されました。
第2代藩主「土方雄高」は陣屋と城下町を建設し、商工業者を招いて新たに東町・河原町を新設します。また、藩の体制を整備して藩政の基礎を固めました。幕末の菰野藩では藩内が佐幕派と尊王派に分かれて争いましたが、慶応4年(1868年)2月27日に藩主の土方雄永が上洛して新政府への支持を明らかにしました。
明治4年(1871年)、廃藩置県により廃藩の上、菰野県、安濃津県となり、翌年には三重県に編入されました。江戸時代を通じて一揆がなかった藩と伝えられます。
伊勢菰野の土方家
菰野藩は、伊勢国三重郡(現在の三重県菰野町)に置かれた一万一千石の藩で、藩主は土方家、陣屋を構える小藩でした。鈴鹿山脈のふもと、御在所岳を望む菰野の地を治め、伊勢と近江を結ぶ街道筋に位置していました。
恭順して家名を保つ
幕末の菰野藩は、戊辰戦争にあたって新政府軍に恭順し、家名を保ちました。小藩ゆえに大きな軍事的役割こそ担いませんでしたが、時流を的確に読んで無用な戦火を避けた、堅実な判断がうかがえます。廃藩置県まで、その歩みを穏やかに続けた藩です。
三つの名を持った藩校と、二百七十年動かなかった家
菰野藩は伊勢国三重郡、いまの三重県菰野町に置かれた藩です。石高は慶長5年(1600年)の入封時を一万二千石とする資料と一万一千石とする資料があり、のちに一万一千石になったという説明もあります。地元の菰野町では一万一千石の藩として紹介されています。
外様で一度も移されなかった
この藩のいちばんの特色は、外様でありながら一度も移封されず、十三代二百七十年余りにわたって同じ土地を治め続けたことです。外様の小藩は幕府の都合で移されることが多く、これは例外的です。十代のころには佐々木惣吉が稲の品種改良で「種関取米」を成功させ、紅屋善左衛門が「菰野茶」を売り出しました。土地に根を張った藩だったことがうかがえます。
麗沢館、修文館、顕道館
学校の歩みがよくわかる藩でもあります。文政3年(1820年)に陣屋内へ麗沢館が開かれ、天保7年(1836年)には十代の土方雄興が陣屋の表門前に文学講堂と武芸の稽古場を設けて修文館としました。そして明治2年(1869年)、修文館を郷会所へ移して顕道館と改称し、明治6年(1873年)に菰野学校となります。藩校がそのまま地元の小学校につながった形です。
誰が子爵になったのか
幕末の藩主は土方雄永です。嘉永4年(1851年)に生まれ、安政5年(1858年)に幼くして家督を継ぎ、大叔父の土方義行が補佐しました。慶応4年(1868年)2月27日に上洛して新政府への支持を明らかにし、東征軍に協力して小隊を送っています。明治2年に藩知事となりましたが、明治3年(1870年)9月に養子の土方雄志へ譲って隠居しました。
そのため明治17年(1884年)7月の華族令で子爵を授けられたのは雄志です。雄志は廃藩後に東京へ出て慶應義塾で英学を修め、工部省の御用掛を務め、貴族院の子爵議員にもなりました。雄永は明治17年(1884年)5月に34歳で亡くなっています。
小学校になった城跡と、残った墓地
菰野城の跡は現在の菰野小学校の敷地です。校地の西と北に城壕と築地の一部が残り、西南の隅には藩邸の庭園がわずかに残って菰野城跡の碑が立っています。廃城のとき藩邸や門は各所へ移されましたが、金蔵寺の門を除いてのちに解体されました。
一方でよく残ったのが藩主家の墓地です。見性寺の境内にある菰野藩主土方家墓地は、昭和49年(1974年)11月26日に町の史跡に指定されました。西の墓地に歴代藩主と兄弟姉妹の墓碑が二十六基並び、東の墓地にもいくつかの墓があります。町は、外様の大名でこれだけの規模の藩主墓地が残っているのは珍しいと説明しています。廃藩後は菰野県となり、安濃津県を経て三重県に入りました。
信雄の娘を妻にした藩祖—菰野藩の土方家と湯の山道
三家老殺害の家
菰野藩の土方家の祖・土方雄久は、織田信雄の命で秀吉派の三家老を長島城で殺し、小牧・長久手の戦いのきっかけをつくった人です(布市藩)。藩祖の土方雄氏は雄久の子ですが、庶子だったため本家は弟の雄重が継ぎ、雄氏は伊勢菰野一万二千石の藩主になりました。雄氏の正室は織田信雄の娘・八重姫で、菰野町内には「八重姫の楓」と呼ばれる樹齢約四百年の古木が残ります。家格は外様、江戸城では柳間に詰めていました。
菰野道と湯の山道
菰野藩の参勤交代は、菰野道で四日市へ出て東海道に入りました。城下の札の辻から先は、湯の山温泉へ向かう「湯の山道」です。寛永七年(1630年)には雄氏が石清水八幡宮を勧請して廣幡神社を建てています。雄氏の法号「見性院」は見性寺の寺号になり、見性寺の書院玄関は藩お抱えの宮大工の作とされます(近鉄菰野駅から徒歩約五分)。
菰野茶と関取米
九代藩主・土方義苗は「臨時準備積立法」で財政を立て直しました。その後、十代雄興のころに「関取米」が生まれ、十一代雄嘉のころには菰野茶の茶園も開かれています。陣屋跡は菰野小学校の敷地とその周りで、堀と土塁がL字形に残り、記念碑が立っています(近鉄中菰野駅から徒歩約五分)。幕末には討幕派の浪士を預かって幽閉したこともあったと伝えられます。
十三代二百七十年
菰野藩は、一度も国替えをせずに十三代二百七十年続いた藩です。最後の藩主・土方雄永のあとを継いだ雄志は、分家の旗本の家の出で、実の弟はのちの日本銀行総裁・土方久徴でした。三家老殺害という激しい始まりの家が、伊勢の山すそで一度も動かずに明治を迎えました。菰野藩の長い安定は、その始まりと対照的です。
菰野藩をもっと詳しく
預けられた先は佐竹家
慶長4年(1599年)の家康暗殺の嫌疑では、父の土方雄久が疑いをかけられ、雄氏も連座して父とともに常陸の佐竹義宣に預けられました。関ヶ原の戦いの直前に許されて徳川家の家臣となり、近江に2000石を加えられて1万2000石で菰野藩を立てています。大坂の陣では徳川方の先陣を務めて手柄を立て、寛永12年(1635年)3月に長男の雄高へ家督を譲り、寛永15年(1638年)6月28日に56歳で亡くなりました。家督を継げなかった父の本家は弟の雄重が継ぎ、のちに陸奥の窪田藩となります。父の雄久は慶長9年(1604年)に下総多古でも5000石を加えられており、のちの多胡藩の地とも縁がありました。
雄年の引き締めと、義苗の積立法
七代の雄年は、保守的な家臣を処罰して緩んだ綱紀を引き締めようとしましたが、幕府の加番勤めや凶作が重なって財政は悪くなりました。立て直したのが九代の義苗です。「臨時準備積立法」は、毎年225俵の米を1割2分の利で13年間積み立てる仕組みでした。あわせて質素倹約と経費の切り詰めを進め、灌漑の工事も行っています。藩校の麗沢館を開いたのも義苗でした。嘉永年間には、大谷九左衛門が十一代雄嘉の許しを得て茶園を開き、菰野茶の産地づくりが進みました。
16か村の郷会所と、城下を訪れた人びと
菰野の城下には、領内16か村の庄屋や村役人が集まる郷会所がありました。城下町の東北には代官所があり、東木戸のそばの札の辻に高札場が置かれていました。藩主が参勤交代に使った菰野道は、四日市で東海道に合流するまでおよそ11キロメートルの道です。道沿いには松並木がありましたが、戦後の道路改修で次々に伐られ、最後の1本も昭和53年(1978年)に松くい虫の被害で枯れました。天明8年(1788年)には画家の司馬江漢が西国への旅の途中で菰野に立ち寄って8日間滞在し、文化11年(1814年)には伊能忠敬の測量隊が明福寺を宿にしています。
1万1千石の藩が出す兵の目安
江戸幕府が慶安2年(1649年)に定めたとされる軍役の規定(案)は、1万石あたり235人を基準にしていました。菰野藩の1万1千石に当てはめると、動員の目安はおよそ260人になります。ただしこの規定は案のまま発布されなかったという説もあり、実際の人数がこのとおりだったとは限りません。戊辰戦争で東征軍に送ったのが小隊規模だったことからも、小藩の兵力の小ささがうかがえます。
幼い藩主と大叔父の補佐
十二代の雄永は、父の十一代雄嘉が安政5年(1858年)10月19日に亡くなったため、数え8歳で家を継ぎました。幼いうえに体が弱く、藩政は大叔父の土方義行が引き続き支えています。藩内で佐幕派と尊王派が争うなかで新政府につく道を選んだのも、この体制のもとでのことでした。雄永は明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還で藩知事となりましたが、翌年9月17日に病気を理由に隠居し、明治4年(1871年)10月15日に東京へ移っています。
最後の当主・雄志のその後
土方雄志は安政3年(1856年)の生まれで、十代雄興の娘婿だった旗本・土方久己の長男です。明治3年(1870年)8月22日に5歳年上のいとこの雄永の養子となり、翌月に家督を継ぎました。慶應義塾で学び、明治11年(1878年)に工部省の御用掛となったのち、明治32年(1899年)には台湾総督府の樟脳局にも勤めています。貴族院議員は明治23年(1890年)から明治30年(1897年)まで、さらに大正7年(1918年)から大正14年(1925年)まで務めました。大正14年11月に養子の雄武(弟・久徴の子)へ家督を譲り、昭和6年(1931年)4月24日に76歳で亡くなっています。



