緒川藩の歩み
緒川の地は、戦国時代初期から中期にかけての水野氏の本拠地でした。第4代当主「水野忠政」の次男「水野信元」、三男「水野忠守」、九男「水野忠重」が領主を歴任しながら、徳川家康の旗下として各地で奮戦しました。慶長五年(1600年)に勃発した「関ヶ原の戦い」では「水野分長」に九千八百二十石が与えられ翌年の慶長六年(1601年)四月に緒川藩を立藩しました。
九千八百二十石であるから正式な大名ではないが、分長の父「水野忠分」は家康の母「於大の方」の弟であり、従兄弟にあたる家康から重用されていました。慶長十一年(1606年)六月、分長は三河国新城藩一万石に移封となったことで緒川藩は廃藩しました。その後、尾張藩領として併合されました。
廃藩のあと—家康の母の里は、尾張藩の一村になりました
緒川藩は慶長六年(1601年)に水野分長が九千八百二十石で成立し、慶長十一年(1606年)に分長が三河新城藩へ移って、五年で廃藩となりました。緒川は清洲藩主・松平忠吉の加増分となり、以後は尾張藩領として幕末を迎えます。支配は鳴海代官所でした。
正直に書きますが、幕末の緒川で大きな事件は見つかりませんでした。尾張藩領の一つの村として過ぎています。周辺の知多半島では尾州廻船—内海船による廻船業と、酒や味噌・酢の醸造が全盛でしたが、緒川がそこにどう関わったかはわかっていません。
この土地の値打ちは、むしろ戦国にあります。緒川城は、徳川家康の生母・於大の方が生まれた城です。享禄元年(1528年)に四代城主・水野忠政の娘としてここで生まれ、十四歳で松平広忠に嫁ぎ、翌年に家康を産みました。
家康の母の里でありながら、幕末には尾張藩のひとつの村にすぎなかった—その落差が、この土地の二百六十年を物語っています。
緒川城跡は文明年間に水野貞守が築いた平山城で、主郭は東西八十三メートル、南北九十五メートル。いまは土塁の一部が残ります。水野貞守が一族の菩提寺として創建した乾坤院には歴代の位牌が祀られ、善導寺は於大の方の菩提所で位牌を安置しています。国道から乾坤院までのおよそ二キロは「於大のみち」として整備され、八重桜が六百本ほど植えられています。
家康の伯父・水野信元の最期
緒川城の主だった水野家の中で、もっとも劇的な生涯を送ったのが、於大の方の兄で家康の伯父にあたる水野信元です。父・忠政の死後に家を継いだ信元は、今川家を離れて織田信秀・信長と結びました。於大の方が家康の父・松平広忠と離縁させられたのは、この水野家の織田への鞍替えが原因でした。
のちに家康が今川から独立して信長と同盟を結んだとき、その仲立ちをしたのも信元だったといわれます。ところが天正三年(1575)の暮れ、信元は武田方に通じたという疑いを信長からかけられ、甥の家康の手で殺されました。家康と信長を結びつけた人物が、二人の同盟のために命を落としたことになります。
幕末に五つの家に分かれていた水野一族
緒川から出た水野一族は、江戸時代を通じて譜代大名の大きな一族となり、幕末には少なくとも五つの家が大名や大名格として残っていました。
- 駿河の沼津藩(水野忠敬)
- 出羽の山形藩(水野忠弘。天保の改革の水野忠邦の家で、明治三年に近江の朝日山藩へ移る)
- 下総の結城藩(水野勝知。家康の叔父・忠重の子・勝成の家)
- 上総の鶴牧藩(水野忠順。安房の北条藩から移った家)
- 紀州藩の附家老として紀伊の新宮を治めた水野家(水野忠幹)。明治元年に新宮藩として独立しました
家康の母の里の小さな城から出た一族が、幕末には東海・関東・奥羽・紀州に散らばって、それぞれの形で徳川の時代の終わりを迎えていたのです。
緒川藩をもっと詳しく
「小川」「小河」と呼ばれた土地
緒川は、古くは「小川」「小河」とも書かれ、緒川藩も「小川藩」「小河藩」と表記されることがあります。鎌倉時代には小河氏が治めていた土地で、室町時代から戦国時代にかけては、小河氏の末裔を名のる水野氏の本拠地となりました。今の愛知県知多郡東浦町緒川にあたります。
天正三年(1575年)に水野信元が殺されたあと、緒川は佐久間信盛の領地となりました。信盛が織田信長に追放されたあとは、忠政の四男・水野忠守の所領になったともいわれますが、その後忠守も緒川城を離れたともされ、このころの領主ははっきりしません。
藩主・水野分長の前半生
水野分長は、永禄五年(1562年)に、水野忠政の八男・水野忠分の長男として尾張で生まれました。父の忠分は織田信長に従い、天正六年(1578年)に戦死しています。分長ははじめ叔父の水野忠重(忠政の九男)に属し、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは「小河常滑の諸士」とともに家康に従って首級を挙げ、三月十八日に本領安堵の朱印状を受けました。小田原攻めにも忠重のもとで加わっています。
その後、分長は一時水野家を離れ、家康の命で蒲生氏郷に仕え、九戸政実の乱では先陣を務めたとされます。慶長四年(1599年)に家康に呼び戻され、翌年の関ヶ原の戦いに加わりました。ただし、このころ大番頭だったという記述には、それを否定する資料もあります。
一万石に足りない「藩」
慶長六年(1601年)、分長は知多郡の緒川などで九千八百二十石の知行地を与えられ、これをもって緒川藩が立ったとみなされています。一万石にわずかに足りないため、ふつうの意味の「大名」「藩」には入りません。ただ、この時期にはまだ「一万石以上が大名」というはっきりした基準ができていなかったとする説があり、そのため藩として扱われています。同じように一万石に少し足りない例として、近江の朽木元綱(九千五百九十石)の朽木藩があります。
緒川城(高藪城)の主となった分長は、水野氏の菩提寺・乾坤院に寄進し、於大の方が深く信仰した善導寺を移築したことが記録に残っています。慶長九年(1604年)には従五位下・備後守に任じられました。
新城へ移ったあとの分長とその子孫
慶長十一年(1606年)、分長は三河国の設楽郡・宝飯郡で一万石を与えられ、新城藩主となりました。大坂の陣にも家康付きの大番頭として従い、元和二年(1616年)に家康が亡くなると二代将軍・秀忠に仕えます。元和六年(1620年)には水戸藩の徳川頼房に付けられ、新城の領地は長男の元綱に譲って、自分は安房国・上総国で一万五千石を与えられました。元和九年(1623年)に六十二歳で亡くなりましたが、安房・上総の領地は継ぐ者がなく、幕府に戻されています。
長男の水野元綱は新城藩一万石を継ぎ、寛永十年(1633年)に四千石を加えられたのち、上野国安中二万石へ移りました。しかし元綱の跡を継いだ次男の元知が乱心したため安中の領地は取り上げられ、子孫は旗本として続いています。
参考:Wikipedia「緒川藩」「水野分長」「水野元綱」「新城藩」



