新城藩の歩み
菅沼の初代領主「菅沼定実」の時代に、川舟の中継地点として栄える基盤が整えられました。第11代当主「菅沼定長」は幕末期において、大番頭、大坂城在番、海軍奉行並などを歴任し、慶応三年(1867年)には幕府の命でフランスへ留学するが「明治維新」のため帰国しました。
定長は交代寄合の旗本であったため藩知事にはならず、明治二年(1869年)の版籍奉還ののち朝臣となり明治四年(1871年)の「廃藩置県」では三河県、伊那県、額田県を経て愛知県に編入されました。
三河・新城の菅沼家
新城藩は、三河国設楽郡新城(現在の愛知県新城市)を治めた藩で、藩主は徳川家康以来この地に根を張った野田菅沼氏の流れをくむ菅沼家です。石高は小さく、長く旗本格の交代寄合として遇された時期もありましたが、三河の名族としての由緒を持つ家柄でした。
幕府の要職を務めた藩主・菅沼定長
幕末の藩主・菅沼定長は、大坂定番をはじめとする幕府の要職を歴任し、幕府海軍にも関わったと伝えられます。小藩の主でありながら幕政の一翼を担った人物であり、動乱の時代に幕府を支えた地方大名の一例として注目されます。
新城の菅沼家は「藩」だったのか
ここは正直に書いておきます。慶安元年(1648年)に菅沼定実が七千石で新城へ入って以来、菅沼家は一万石に届かず、大名ではなく交代寄合の旗本として陣屋を構えていました。参勤交代を行う家格ではありましたが、大名にはなれなかったのです。
なお「新城藩」の名は、江戸前期に水野家が置かれた時期のものを指す場合もあります。菅沼家の新城とは別の話です。
幕末の当主・菅沼定長は、この状況を変えようとしました。明治三年一月、新田地を加えれば一万石以上になるとして藩列に加えてほしいと請願しています。しかしこれは認められず、定長は華族になれませんでした。明治二年に中大夫以下の称が廃されると、東京府の士族に編入されています。
菅沼定長という人
定長は弘化四年(1847年)の生まれで、文久二年(1862年)に父の定信が没して十一代の新城領主となりました。慶応元年に従五位下・左近将監に叙されています。
幕末には大番頭、大坂城在番、海軍奉行並を歴任したと伝えられます。ただし海軍奉行並の在任を裏づける史料には当たれておらず、この点は留保つきで記しておきます。維新後は明治六年に退官して東京の銀座で貿易商となり、明治九年に三十歳で世を去りました。
新城陣屋跡と、山の湊
新城陣屋(新城城)の跡は、新城市の東入船・西入船のあたり、いまの新城小学校の敷地です。天正三年(1575年)に長篠の戦いのあと奥平信昌が長篠城から移って築いた城で、慶安元年に菅沼定実が陣屋を置きました。廃止後に建物は取り払われ、大正三年に小学校の前身となる学舎が建っています。本丸の南東に土塁が残り、発掘では穴蔵跡や堀跡も確認されました。
江戸時代の新城は、伊那街道を下ってきた馬の陸運と、豊川をさかのぼってきた舟運とが出会う町でした。「山湊馬浪(さんそうばろう)」と呼ばれたのはそのためです。荷を舟から馬へ積み替える中継の町として栄え、百姓一揆が一度も起きなかったと伝わります。町衆のあいだでは能が盛んで、富永神社の能舞台は江戸城の舞台を模したといわれます。
桜の名所として知られる桜淵は、寛文二年(1662年)に菅沼定実が景観に目をとめて桜を植えさせたのが始まりです。いまは県立自然公園となり、三河の嵐山と呼ばれています。
新城にあった本当の藩—半原藩
菅沼家が藩でなかった一方、新城市域には幕末に実在した藩があります。半原藩です。
江戸時代の市域は、北部が菅沼氏の領地と作手藩の旧領、南部が武蔵国の岡部藩領という構成でした。岡部藩主の安部信発は元治元年十一月、中山道筋を西上する天狗党と武蔵で交戦して撃退した人です。慶応四年三月に上洛して新政府へ恭順し、四月に三河国八名郡半原村(現在の新城市富岡)へ藩庁を移して半原藩が成立しました。石高は二万二千二百五十石です。
半原藩は明治四年の廃藩置県で半原県となり、県庁が半原村に置かれたのち愛知県に合併されました。藩庁が新城にあった期間は三年あまりです。新城市富岡には半原藩邸跡の碑が残り、昭和三十八年に市の史跡に指定されています。
戦国の長篠城跡は、天正四年(1576年)に奥平信昌が新城へ移ったため廃城となりました。昭和四年に国の史跡となり、いまは本丸と野牛曲輪が残ります。土塁の上を飯田線が走るという、変わった姿の城跡です。
信玄砲の寺と、豊川舟運の終点
野田城主の家
先祖の菅沼定盈(1542〜1604)は野田城主で、今川氏から家康に従い、天正18年(1590)に上野阿保1万石を得ました。新城には菅沼家より前に、慶長11年(1606)に水野分長が1万石で入っていたとされます。丹波亀山藩主だった定昭が正保4年(1647)に跡継ぎなく亡くなり、菅沼家はいったん改易されましたが、定盈の功績を理由に再興が認められ、新城で1万石を受けたうち3千石を弟に分けて7千石となったとされます。
宗堅寺と信玄砲
菩提寺の宗堅寺(新城市宮ノ前)は慶安元年(1648)の入部とともに亀山から移され、初代定実から11代定長までの墓があります。この寺には「信玄砲」が伝わります。元亀4年(1573)の野田城攻めで、笛の音に誘われた信玄を撃ったとされる鉄砲で、銃身だけが残り、設楽原歴史資料館に展示されています。初代の定実は茶人でもあり、宗徧流の山田宗徧に学んだとされます。
豊川舟運の終点
新城は豊川の舟運の終点にある川の港でした。ここで信州へ送る塩・木綿・塩干魚が中馬に積み替えられ、信州からはタバコや紙が運ばれてきました。菅沼家の城下町は慶安元年から223年間続いています。
考察:信玄を撃った伝説を持つ家
信玄の死因の一つとして語られる野田城の狙撃。その鉄砲を菩提寺に伝える家が、川湊の町で幕末まで続きました。伝説の真偽はともかく、家の誇りを道具で語り継ぐ姿に、武家の記憶の守り方を見る思いがします。


