敦賀藩(小浜藩支藩)/酒井家1万石:酒井忠経 本家小浜藩と違い一貫して新政府軍に与した敦賀藩

敦賀藩(小浜藩支藩)

目次

藩の歩み

敦賀藩は天和二年(1682年)、小浜藩の第2代藩主「酒井忠直」の次男の「酒井忠稠」が父の遺領のうち越前敦賀郡・近江高島郡において一万石を分与されたことに始まる藩です。

敦賀藩(小浜藩支藩)/場所・アクセス・地図 酒井家1万石:酒井忠経 本家小浜藩と違い一貫して新政府軍に与した敦賀藩【幕末維新写真館】

幕末時の「戊辰戦争」においては、本家の小浜藩は当初旧幕府軍に属していたが、支藩である敦賀藩は一貫して新政府側に与しました。そして「北陸道鎮撫使」の先鋒役を務めました。明治二年(1869年)、「版籍奉還」により「酒井忠経」が敦賀藩知事となり、翌明治三年(1870年)三月には藩名を正式に鞠山藩と改名。ほどなくしてその所領は小浜藩に併合されました。

翌明治四年(1871年)の「廃藩置県」で廃藩となり小浜県となります。その後敦賀県・滋賀県を経て、明治十四年(1881年)二月、福井県に編入されました。

本家・小浜藩との関係

敦賀藩は、若狭の小浜藩/酒井家十万三千石の支藩です。酒井家の分家が一万石を領しました。

幕末、本家の小浜藩が去就に迷うなか、敦賀藩は一貫して新政府方に与しました。本家とは異なる道を選んで時流に乗った点が特徴です。最後の藩主は酒井忠経です。小藩ながら明確な旗色を示した、小浜の支藩でした。

北前船の鰊蔵が、天狗党の牢になった

敦賀藩は小浜藩の支藩で、天和二年(1682)に小浜藩主酒井忠直の遺言により次男の忠稠へ一万石を分けて成立しました。貞享四年に赤崎の地を鞠山と改めて陣屋を置いたので、鞠山藩とも呼ばれます。

この小さな藩の名を歴史に刻んだのは、藩の政治ではありません。水戸天狗党の最期の舞台になったことです。

元治元年(1864)十一月に常陸の大子を発った天狗党は、およそ千キロを四十日かけて西へ進み、十二月十一日に木ノ芽峠を越えて敦賀の新保村へ到着します。京都から徳川慶喜が幕府軍を率いて向かうと知って進退きわまり、十二月十七日、加賀藩に投降しました。交渉の場となった新保の陣屋は、いまも武田耕雲斎本陣跡として残ります。

加賀藩は彼らを厚く遇したと伝えられます。ところが翌元治二年正月、幕府の追討軍を率いる田沼意尊に引き渡された途端、扱いは一変しました。押し込められたのは鰊粕を貯蔵する荷蔵十六棟。一日に握り飯ひとつと湯水一杯だけという扱いで、収容中に二十名以上が命を落としています。

敦賀は北前船の寄港地として栄えた港でした。蝦夷地から運ばれる鰊と昆布がこの町の富の源です。その繁栄の象徴だった鰊蔵が、そのまま牢獄になったわけです。

処刑は元治二年二月四日、武田耕雲斎ら幹部の斬首から始まり、来迎寺の刑場で五回に分けて二月二十三日までに終わりました。斬られたのは三百五十二名。敦賀側の資料や墓石では三百五十三名とされ、埋葬者数としてはこちらが使われます。数には諸説あります。処刑のたびに穴を掘って埋めたため、墓は五つの塚になりました。

この武田耕雲斎等墓は昭和九年に国の史跡となり、道を挟んだ西側には明治になって松原神社が建てられました。創建は明治七年とも八年とも伝えられます。境内には天狗党員が押し込められた鰊蔵の一棟が移築されています。

▼ 天狗党の乱そのものの経緯はこちら
天狗党の乱とは何だったのか

なお処刑を行ったのは幕府の追討軍であり、敦賀藩が処刑したわけではありません。敦賀周辺の警備にあたっていたのは本家の小浜藩で、遠島処分となった百十名は小浜藩が預かり、藩主酒井忠氏は佐柿の屋敷へ移して手厚く扱ったと伝えられます。

廃藩を願い出た藩主と、逆転した本家と分家

幕末の藩主は七代酒井忠毗(ただます)です。幕府の外国事務掛を務め、若年寄を三度も歴任した実力者でした。

その忠毗が、安政六年(1859)に驚く行動に出ます。藩財政の窮乏から、所領を本家の小浜藩へ返して藩そのものをたたもうとしたのです。ところが領民が猛反対して沙汰やみになりました。殿様が藩をやめたがり、領民が引き止めた—一万石の藩の実情がよく表れています。

慶応三年に家督を継いだ八代酒井忠経は、父や本家の小浜藩が幕府側に立ったのに対し、新政府側に与しました。

その後の展開も変わっています。明治三年に藩名を正式に鞠山藩と改めた直後、所領を本家の小浜藩へ併合して藩は消滅します。ところがこのとき、鞠山藩知事だった忠経が、逆に本家から小浜藩知事の地位を譲られました。分家が本家を継いだかたちです。翌明治四年の廃藩置県で小浜県となり、同年十一月に敦賀県、さらに滋賀県を経て明治十四年に福井県へ編入されました。

敦賀藩をもっと詳しく

江戸に住み続けた藩主と、本家が治めた領地

敦賀藩は「敦賀」の名を持ちますが、敦賀郡のほとんどは本家の小浜藩の領地で、敦賀藩が持っていたのは敦賀郡の一部と近江国高島郡(いまの滋賀県高島市)の村々にすぎませんでした。港町として栄えた敦賀の町を治めていたのも、敦賀藩ではなく本家の小浜藩でした。

また歴代の藩主は参勤交代で国元と江戸を行き来するのではなく、江戸に住み続ける「定府(じょうふ)」の大名でした。領地の実際の支配は本家の小浜藩が担っていたとされ、貞享四年(1687年)に置かれた鞠山陣屋は、少数の役人が使うだけだったといわれます。一万石の大名の格はありながら、国元のことは本家に任せる、小浜藩と一体の藩でした。

幕府の役職を務めた藩主たち

江戸に住んだ敦賀藩の藩主は、幕府の役職に就くことが多い家でした。初代の酒井忠稠(ただしげ、1653年生まれ)は大番頭などを務め、その後の藩主も奏者番・寺社奉行・若年寄・大坂城番などに就いています。小さな藩ながら、幕府の中では存在感のある家だったとされます。幕末の七代忠毗が若年寄を三度務めたのも、この家の流れの中にあります。

本家と分家・親戚の家—小浜藩酒井家

本家の小浜藩酒井家は、三代将軍徳川家光のもとで老中・大老を務めた酒井忠勝(讃岐守、1587年〜1662年)にはじまる家です。忠勝は酒井忠利の子で、寛永十一年(1634年)に武蔵川越から若狭小浜へ移り、十一万三千五百石の大名となりました。寛永十五年(1638年)には土井利勝とともに大老に任じられ、家光の死後もその遺命によって四代家綱を補佐しています。晩年は空印と号しました。

敦賀藩を開いた忠稠は、この忠勝の子・忠直(小浜藩二代)の次男で、忠直の遺言によって一万石を分けられました。つまり敦賀藩酒井家は、大老忠勝の孫が開いた家です。

戊辰戦争での動き

本文のとおり、敦賀藩は戊辰戦争で新政府側に付き、北陸道鎮撫使の先鋒役を務めました。同じ明治元年(1868年)の六月には、藩内で「鞠山騒動」と呼ばれる騒ぎも起きたと記録されています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万石のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「敦賀藩」「酒井忠稠」、コトバンク「酒井忠勝」

場所・アクセス・地図

北陸・信越の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次