村上藩の歩み
内藤氏は「徳川家康」の異母弟「内藤信成」の家系です。村上藩7代藩主「信思」の養嗣子で第8代藩主となった「内藤信民」は、幕末の混乱期に藩内における佐幕派・尊皇派の対立に苦しみながら、慶応四年(1868年)七月に早世しました。

このため「村上藩」は藩主不在となり、家老で佐幕派の「鳥居三十郎」が主導権を握ることになります。三十郎は「奥羽越列藩同盟」に加わり「庄内藩」と共に新政府軍と交戦したが、兵力・装備ともに劣る村上藩では太刀打ちできず、戦に敗れて同年九月二十七日に降伏しました。明治二年(1869年)二月、信民の後を継いだ「内藤信美」は新政府より家督相続を認められ、同年六月には「版籍奉還」を行なって村上藩知事となります。

そして明治四年(1871年)の「廃藩置県」により村上藩は村上県となり、同年十一月には「新潟県」に併呑されました。

越後最北の村上藩
村上藩は、越後国岩船郡(現在の新潟県村上市)に置かれた五万石の藩で、村上城を居城とし、藩主は譜代の内藤家でした。越後の最北、庄内へと続く海沿いの要地を治め、鮭の名産地としても知られる城下町を営みました。
同盟軍として戦い、降伏
戊辰戦争において村上藩は、奥羽越列藩同盟に加わり、強豪・庄内藩などとともに新政府軍と戦いました。しかし戦局が同盟側に不利となるなか、藩内は抗戦派と恭順派に割れ、最終的に降伏に至ります。越後北部が戦火に包まれた、戊辰戦争の激しさを伝える藩です。
戦っているあいだ、村上藩に藩主はいませんでした
村上藩の戊辰戦争には、ふつうの藩にはない事情があります。藩主が戦の途中で世を去り、次の藩主が立つのは戦が終わったあとだったという点です。ここを押さえないと、村上の戦いはどうしても筋が通らなくなります。
三人の藩主
七代内藤信思(のぶもと)は、村上藩では別格の人でした。文政八年(1825年)に家督を継ぎ、寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任し、嘉永四年(1851年)から十一年にわたって老中を務めています。もとの名は信親で、皇女和宮の降嫁にあたって「信思」と改めました。その信思が隠居するのが元治元年(1864年)です。明治七年(1874年)に六十三歳で亡くなっています。
跡を継いだ八代内藤信民は、信濃岩村田藩の内藤家から入った養嗣子でした。嘉永三年(1850年)生まれで、元治元年に十四歳で家督を継いでいます。そして慶応四年(1868年)七月、十九歳で自害しました。日付については七月十一日とするものと七月十六日とするものがあり、どちらとも決められていません。
九代内藤信美は、和泉岸和田藩主岡部長寛の長男です。信思が養嗣子に迎えて内藤信美と名乗らせ、明治二年(1869年)二月三日に信民の跡を継がせました。つまり信美が藩主になったのは、村上城が落ちて半年後のことです。
家老が藩を背負った一か月
藩主が自害したあと、藩論は真っ二つに割れました。主導権を握ったのは家老の鳥居三十郎(本名は和祚=まさよし)です。天保十二年(1841年)十月生まれ、戊辰当時は村上藩でいちばん若い家老でした。
新潟県の文化情報サイトが伝える経過はごく短い二行です。慶応四年八月十日、城下に避難命令。八月十一日、村上城落城。鳥居ら抗戦派は庄内方面へ向かい、帰順派は投降しました。
抗戦派は約二百名で村上を脱出し、庄内藩を目指しました。村上城は全焼していますが、出火原因は「不明」とされています。城を戦場にしないために山麓の居館に火を放ったのだ、という説明が地元では伝えられていますが、これを断定した公的な資料は見つかりません。
そのあと約一か月、九月一日の鼠喰岩の戦いを含めて、新政府軍の侵攻は村上で止まりました。同じ藩の藩士が二つの陣営に分かれて撃ち合う戦いです。降伏は九月二十七日とされますが、この日付の出典は弱いものしか確認できていません。
鳥居三十郎は明治二年六月二十五日(1869年8月2日)に切腹しました。享年二十九。処刑の予定日から延期されたうえでの日でした。遺体は翌日、村上の宝光寺に埋葬されています。鳥居家は明治十六年(1883年)に家名を再興しました。
幕末の村上城に天守はありません
村上城は標高百三十五メートルの臥牛山に築かれた城です。築城年代は不明ですが、十六世紀前半には存在していたと考えられています。もとは小泉荘の国人領主本庄氏の本拠で、永禄十一年(1568年)には上杉謙信との籠城戦の舞台となりました。
近世の城になるのは、慶長三年(1598年)に村上頼勝が九万石で入ってからです。西国の築城技術で石垣と堀を備えた城へ改修が始まりました。元和四年(1618年)に堀直寄が十万石で入り、元和六年(1620年)頃に三層の天守を築き、堀と土塁をめぐらせた総構えの城郭を完成させています。
慶安二年(1649年)に松平直矩が入って十五万石に加増され、寛文三年(1663年)から大規模な普請が始まりましたが、寛文七年(1667年)に天守が落雷で焼失し、以後は再建されませんでした。ですから鳥居三十郎たちが去った慶応四年の村上城には、天守はありません。
内藤家が入るのは享保五年(1720年)です。以後九代・百五十一年にわたって城主を務めました。歴代の石高は村上頼勝の九万石から堀氏十万石、本多忠義十万石、松平直矩十五万石、榊原氏十五万石、本多氏十五万石のち五万石、松平輝貞七万二千石、間部氏五万石と動き、内藤家は五万石です。この城は、石高が三分の一に落ちた城でもありました。
鮭と堆朱と茶
村上藩の名を残しているのは、戦ではなく産業のほうかもしれません。
青砥武平治は正徳三年(1713年)に生まれ天明八年(1788年)に没した村上藩の下級武士です。三面川に分流を設けて鮭を導き、産卵させ、産卵が終わるまで禁猟とする「種川の制」を構想しました。完成は武平治の没後、寛政六年(1794年)とされます。村上市はこれを「鮭の自然ふ化増殖システム」と説明し、カナダなどで同種の事業が始まる百四十年前のことだと記しています。藩財政を支えた仕組みでした。
村上木彫堆朱は、漆工技術そのものは約六百年前に京都から寺院建築に従事した漆工が伝えたものですが、約二百七十年前に村上藩士の頓宮次郎兵衛が木彫堆朱・堆黒を藩内に広めたとされます。昭和三十年二月に新潟県の文化財、昭和五十一年二月に国の伝統的工芸品に指定されました。堆朱・堆黒・朱溜・彩漆・金磨・三彩彫の六技法の総称です。
村上茶は1620年代、徳光屋覚左衛門が宇治と伊勢から茶の実を買い入れて地場産業にしようとしたのが始まりと伝わります。藩主の堀直寄が宇治から取り寄せたという別の説もあります。日本海側における商業的な茶産地の北限とされる茶です。
藩校は克従館でした。設立年と創設者は確認できていません。
城跡と武家屋敷
村上城跡は平成五年(1993年)六月八日に国の史跡に指定されました。天守櫓や門といった城郭建造物は残っていませんが、戦国期の竪堀・虎口と江戸期の石垣の遺構が同じ山に混在しています。石垣は高さ八メートル近くに達し、平成十二年から臥牛山上で石垣の積み直し修理工事が続けられてきました。
城下には若林家住宅が残ります。昭和五十二年(1977年)一月二十八日に重要文化財に指定された建物で、村上市三之町にあります。桁行十六・三メートル、梁間八・五メートル、寄棟造の茅葺で、L字型の平面を持ちます。国の文化財データベースは明和六年の火災後、1769年の建築としています。「部屋割りが細かく、土間が狭いなど、間取に侍屋敷らしい特色がある」中級武家の住宅です。
その後
明治二年六月、版籍奉還により内藤信美が知藩事となりました。明治三年十二月二十五日には村上県知事として、焼け残った城郭建築の破却を政府に届け出て受理されています。自分が継いだ城を、自分の手で片づけたことになります。
明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で罷免され、村上県は同年十一月に新潟県へ吸収されました。残った建物の解体撤去が終わるのは明治八年(1875年)です。諸門や石垣は破却・売却され、建設資材や燃料に転用されました。内藤家は明治十七年(1884年)の華族令により子爵となっています。
村上藩をもっと詳しく
先祖の戦国武将・内藤信成
村上藩内藤家の祖・内藤信成(のぶなり)は、天文十三年(1544年)ごろの生まれとされる徳川家康の家臣です。本文にあるとおり家康の異母弟とされますが、その出自については、内藤清長の娘が松平広忠(家康の父)の寵愛を受けて身ごもり、清長が養子として育てたという説が有力とされています。
信成は永禄元年(1558年)、十四歳で広瀬城攻めに初陣しました。永禄五年(1562年)には三河一向一揆の戦いで初めて六百石を与えられています。元亀三年(1572年)の一言坂の戦いでは退却する軍の最後尾(殿=しんがり)を務め、続く三方ヶ原の戦いでも本多忠勝とともに殿を務め上げて、敗走する家康を守りました。天正三年(1575年)の長篠の戦いでは先手の侍大将を務めています。
その後、天正十八年(1590年)に伊豆韮山城主一万石、慶長六年(1601年)に駿府城主四万石、慶長十一年(1606年)には近江長浜城主四万石へと移り、慶長十七年(1612年)七月二十四日、長浜城で病のため六十八歳で亡くなりました。跡は子の内藤信正が継ぎ、この信成の系統の内藤家が、のちに越後村上藩主となって幕末まで続きました。
藩の成り立ち:老中と所司代を出した家
本文にあるとおり、村上城の主はたびたび替わり、内藤家が入ってようやく藩主家が落ち着きました。以後、内藤家は九代にわたって村上を治めます。七代信思の前にも、六代の内藤信敦(のぶあつ)が寺社奉行や京都所司代を務めており、五万石の譜代ながら、幕府の要職を続けて出した家でした。
領地のようす:岩船郡と蒲原郡
村上藩の領地は、越後国岩船郡の百七十村と、蒲原郡の七十村からなっていました。ただし周辺には幕府領や会津藩領、黒川藩領など、ほかの領主の土地がまじり合っていました。村上藩の領地は、ひとまとまりではなかったことになります。本文で紹介されている三面川の鮭、村上茶、木彫堆朱は、こうした領地のなかで育った産業です。
藩主家の子孫・明治以降
最後の藩主・内藤信美は、明治四年(1871年)七月十五日、廃藩置県によって藩知事を免ぜられ、東京に移りました。明治十二年(1879年)十月には隠居し、長女と結婚した婿養子の信任に家督を譲っています。そのあと信美は内藤家を離れ、生家の岡部家(和泉岸和田藩主家)に戻りました。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、五万石のこの藩はおよそ千百八十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「村上藩」「内藤信成」「内藤信美」



