【藩名】
斗南藩
【説明】
斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)11月3日に松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった藩です。
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5,000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高は7,380石に過ぎませんでした。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来ありませんでした。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じました。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は柴五郎によって語られています。
その後、斗南藩は明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事廣澤安任らによる明治政府への建言により、同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅しました。また、二戸郡の一部は岩手県に編入されました。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7,327人の内3,300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4,000人余の斗南藩士卒族が残留していました。
その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷しています。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ています。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列しました。
斗南藩をもっと深く——三万石という名の、七千石
「北斗以南、皆帝州」
斗南という地名は、この藩ができるまで存在しませんでした。会津藩の再興を許された人々が、移された下北の地に自ら付けた名です。「北斗以南、皆帝州」——北極星より南はすべて天子の治める国だ、という漢詩の一節から採られました。
朝敵とされた家が、あえて「ここも帝の国である」と名乗りました。負けた側の矜持と、生き延びるための表明とが、同じ二文字に込められています。
三万石という数字のからくり
与えられたのは陸奥国三万石。会津二十三万石から見れば十分の一だが、藩として成り立たないほどではない——書類の上では。
実際には違いました。下北半島の北端一帯は、ヤマセの吹き込む冷涼な土地で、稲がまともに実らません。実収は七千石程度だったといわれます。そこへ会津から移り住んだのは、およそ一万七千人です。
石高という制度が、いかに現地を見ていない数字だったかが、この一藩に凝縮しています。人が食える量と、帳簿上の石高は、別のものでした。
あの冬を越えた少年たち
柴五郎は会津の落城で一家の女たちを失い、少年のまま斗南へ渡りました。飢えをしのぐために何を食べたか、彼はのちに淡々と書き残しています。その柴は陸軍大将にまで進み、北京の公使館区域が包囲された義和団事件で、各国軍を指揮して守り抜きました。
籠城戦を戦った山川浩は斗南藩の実務を背負い、のちに陸軍少将、そして東京高等師範学校長となります。妹の捨松はアメリカへ留学し、日本人女性で初めて大学を卒業しました。
明治日本の中枢に会津出身者が食い込んでいったのは、朝敵の家に生まれた者に、学問と軍務以外の道がほとんど残されていなかったからでもあります。
米をあきらめた男
斗南藩の大参事・広沢安任は、この土地で米を作ろうとすること自体が誤りだと判断しました。彼が選んだのは牧畜です。
明治五年、三沢の谷地頭に開いた牧場は、日本で最初の民間洋式牧場とされます。イギリス人技師を雇い、西洋式の牧畜経営を持ち込みました。政府の官営牧場ができるより早いです。
米が穫れないなら米以外で食う、という当たり前の結論に、当時の日本ではほとんど誰も踏み切れませんでした。会津の敗者が、日本の近代畜産の起点になっています。青森が馬と牛の産地として知られるようになる道筋は、ここから始まりました。
二年で消えた藩
斗南藩そのものは、明治四年の廃藩置県であっけなく消えました。存続期間はおよそ二年。多くの人が会津へ戻り、あるいは北海道へ渡り、そのまま下北に残った家もあります。
弘前藩と盛岡藩が二百七十年いがみ合ってきた土地の隅で、会津の人々が二度目の敗戦を耐えました。北の三つの家の不幸が、下北半島の同じ場所で重なっています。
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