市川・船橋の戦いとは?撒兵隊が朝の奇襲で勝ちながら一日で敗れ、船橋大神宮が燃えた理由

炎上する船橋大神宮と、臼砲を撃つ新政府軍(イラスト)

慶応4年閏4月3日。江戸城が明け渡されてまだ3週間あまりの下総で、旧幕府の撒兵隊と新政府軍がぶつかりました。夜明け前、撒兵隊は八幡の新政府軍の陣を奇襲して大砲を奪い、市川宿まで押さえます。ところが昼には形勢が逆転。船橋では大神宮が砲撃で燃え、宿場の家々も焼けて、撒兵隊はちりぢりに逃げました。これが「市川・船橋の戦い」(市川・船橋戦争)です。

江戸開城のあと、南関東で起きた最初の本格的な戦いでした。この記事では、撒兵隊がなぜ市川・船橋にいたのか、両軍はどの藩がどれだけの兵で戦ったのか、朝に勝っていた撒兵隊がなぜ一日で崩れたのかを、進軍図とイラストで解説します。

目次

市川・船橋の戦いとは?ひとことで言うと

木更津に集まった旧幕府の撒兵隊のうち、中山と船橋に出ていた部隊が、武装解除を求める新政府軍と戦い、朝の奇襲で勝ちながら、昼からの援軍と挟み撃ちで一日のうちに敗れた戦いです。

日時慶応4年閏4月3日(1868年5月24日)の夜明け前〜午後
場所下総国の市川・八幡・中山・船橋(現在の千葉県市川市・船橋市)
旧幕府側撒兵隊(総督・福田八郎右衛門)の第一大隊(江原鋳三郎)と第二大隊
新政府側岡山藩・津藩・佐土原藩・福岡藩、のちに薩摩藩の援軍
結果新政府軍の勝利。撒兵隊は船橋から東へ敗走した。市川で127軒、船橋の3村で814軒が焼けた

なぜ市川・船橋で戦いが起きたのか

江戸城の明け渡しと、房総に向かった撒兵隊

慶応4年4月11日、江戸城は新政府軍に明け渡されました。これに従わない旧幕府の将兵は、次々と江戸を抜け出します。大鳥圭介は伝習隊などを率いて市川の国府台に集まり、榎本武揚の艦隊は房総の館山湾に入りました(大鳥圭介とは)。

そして、福田八郎右衛門(道直)の率いる撒兵隊は、江戸湾を渡って上総の木更津に入ります。撒兵隊は、幕府が慶応年間の軍制改革でつくった洋式の部隊の一つで、旗本・御家人の家の者を中心にした兵でした。その数は5つの大隊でおよそ1,500人とも、2,000人ともいわれます。

撒兵隊は、真里谷村(いまの木更津市)の真如寺に本陣を置き、「徳川義軍府」と名のりました。

江戸名所図会に描かれた船橋の意富比神社(船橋大神宮)
戦いの30年ほど前、『江戸名所図会』に描かれた船橋の意富比神社(船橋大神宮)。この社が撒兵隊第二大隊の拠点となり、戦いで焼けた(長谷川雪旦画。出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

大鳥圭介を助けに出たが、もういなかった

福田は、市川の大鳥の部隊と力を合わせようと、兵を北へ送ります。4月23日ごろの配置は、次のようなものでした。

部隊隊長置かれた場所
第一大隊(約300人)江原鋳三郎中山の法華経寺(市川市)
第二大隊(約300人)堀岩太郎船橋大神宮(船橋市)
第三大隊(約300人)増田直八郎姉崎の妙経寺(市原市)
本陣福田八郎右衛門真里谷村の真如寺(木更津市)

ところが、大鳥の部隊はすでに市川を離れていました。流山で近藤勇が捕らえられ、土方歳三と合流した大鳥は、北の会津藩と組む道を選び、宇都宮へ向かっていたのです(宇都宮城の戦いとは)。撒兵隊の兵は、組むはずの相手のいない市川・船橋に取り残される形になりました。

武装解除をめぐる交渉

新政府軍は、千住宿を守っていた岡山藩などに、撒兵隊の武装解除を命じます。4月25日から八幡で話し合いが始まり、新政府側は江原に3日以内に武器を差し出すよう求めました。江原は、徳川家の家名を立てることが認められるなら武器を置く考えでしたが、隊の中の強硬な者たちが反対して、話はまとまりません。

新政府軍は、閏4月1日までに応じなければ攻めると決め、閏4月2日に最後の通告を出しました。撒兵隊はこれを拒みます。そして、新政府軍が攻める前に、撒兵隊のほうから動きました。

両軍の顔ぶれと兵力

旧幕府側(撒兵隊)

役目人物どんな人か
総督福田八郎右衛門(道直)撒兵隊を率いて木更津に入り、真里谷の真如寺に本陣を置いた
第一大隊長江原鋳三郎のちの江原素六。この戦いで重傷を負い、生きのびて明治の教育者・政治家になった
第二大隊長堀岩太郎船橋大神宮を拠点にした
江原素六(鋳三郎)の肖像写真
第一大隊長・江原鋳三郎(のちの江原素六)。写真は明治以降のもの(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

新政府軍

藩置かれた場所人数(おおよそ)
岡山藩・津藩市川・真間の弘法寺(本陣)約400人
岡山藩(・津藩)八幡約80〜100人
福岡藩行徳約100人
佐土原藩鎌ケ谷約200人
援軍松戸・小岩方面から岡山藩・津藩・薩摩藩の兵

兵力と武器を比べる

撒兵隊新政府軍
この日に戦った兵第一大隊・第二大隊の約600人市川・八幡・行徳・鎌ケ谷の約700〜800人に、昼から援軍が加わる
武器幕府の洋式部隊として洋式の小銃を持つ。朝の奇襲で新政府軍の大砲2門を奪った小銃と大砲。佐土原藩は船橋で臼砲(短い砲身で山なりに弾を撃つ砲)を使い、大神宮を撃った
配置中山・船橋・姉崎・真里谷と、40キロ以上にわたってばらばら江戸に近い市川の本陣を中心に、まわりの村を押さえる
援軍の見こみ頼みの大鳥の部隊はすでにいない。本陣の主力は遠い木更津江戸から次々に援軍が来られる

兵の数そのものは、朝の時点ではそれほど差がありません。差がついたのは、援軍が来るかどうかでした。

戦いの流れ

市川・船橋の戦いの進軍図
市川・船橋の戦いの進軍図。撒兵隊は中山から八幡を奇襲したが、昼に松戸・小岩から援軍が着き、北の鎌ケ谷から佐土原藩、南の行徳から福岡藩が船橋へ迫った(イメージ)

夜明け前:撒兵隊、八幡を奇襲

閏4月3日の午前2時ごろ、江原の第一大隊は中山の法華経寺を出ました。午前3時半ごろ(5時ごろとも)、約200人で八幡の岡山藩の陣を襲います。不意をつかれた岡山藩は大きく乱れ、市川の方から津藩の援軍が大砲を撃ちましたが、両藩とも崩れて、大砲2門を撒兵隊に奪われました。3時間ほどの激しい戦いのあと、岡山・津の兵は市川宿の方へ退きます。

午前10時ごろ、第一大隊は市川宿を押さえました。しかし、隊は市川を旧幕府の靖難隊にまかせて、中山の法華経寺へ戻ってしまいます。

昼:援軍が来て形勢逆転

昼ごろ、松戸の方から岡山藩の援軍が、小岩の方から津藩・薩摩藩の援軍が江戸川を渡って着き、形勢は逆転しました。撒兵隊は八幡・中山を捨てて、船橋の方へ退きます。このとき、市川宿では民家127軒が焼けました。

同じころ、北から佐土原藩が船橋へ

鎌ケ谷にいた佐土原藩の兵は、八幡の方から聞こえる砲声を、味方が撒兵隊を攻めている音だと思いました。午前5時ごろ、約100人が木下街道を南へ、馬込沢をへて船橋へ向かいます。途中の上山新田・夏見のあたりで撒兵隊第二大隊の前の部隊とぶつかり、両軍に戦死者が出ました。

炎上する船橋大神宮と、臼砲を撃つ新政府軍
臼砲で船橋大神宮を撃つ新政府軍と、宮坂を退く撒兵隊(イラスト)

午前11時ごろ:船橋大神宮の炎上

午前11時ごろ、佐土原藩の兵は船橋宿に入りました。いまの本町通りのあたりに臼砲を据えて大神宮を撃ち、境内は炎に包まれます。宮坂では激しい撃ち合いになりましたが、大神宮が燃えると第二大隊は崩れ、大和田(いまの八千代市)の方へ退きました。

佐土原藩は、宿場に残る兵をあぶり出すため、船橋宿に火をつけます。南東の強い風にあおられて火は広がり、宿場の半分以上が焼けました。火は翌日の大雨でようやく消えたといいます。

午後:海神での挟み撃ち

行徳にいた福岡藩の兵は、薩摩藩の援軍とともに海沿いを東へ進み、中山と船橋の間の海神に出て、二つの部隊のつながりを断ちました。午後1時すぎ、西海神村の下道で、江原の率いる40人ほどと福岡藩の兵がぶつかります。

福岡藩の足軽小頭・小室弥四郎は、上の者が退いたあとも味方を励まして戦い、江原と組み打ちになりました。小室は江原を押さえこみましたが、うしろから斬られて討たれます。江原も左足に3発の銃弾を受けて動けなくなりました。撒兵隊は挟み撃ちにあって、ちりぢりに逃げていきました。

戦いのあと

死者と、焼けた家

内容
戦死者『市川市史』では37人(新政府側13人、旧幕府側20人、人足4人)。実際はもっと多かったとの断り書きがある。新政府側20人、旧幕府側13人とする資料もある
市川村127軒が焼け、669人が焼け出された
船橋宿九日市村562軒、五日市村221軒、海神村31軒、あわせて814軒が焼けた
そのほか西海神村60軒、東西の夏見村28軒

戦場になった村々では、兵の死者よりはるかに多い人々が家を失いました。翌4日に江戸を出た新政府の柳原前光は、5日に国府台に入り、焼けた村に見舞金を出しています。市川村に500両、船橋宿に2,219両。新政府に恨みを向けさせないための手当てでした。船橋の五日市村の川奈部家も、私財から焼け出された人々に金を配っています。

船橋大神宮の祭りの神輿や山車もこの火で焼け、祭りは長く行えませんでした。神輿が奉納されて祭りが戻ったのは、明治33年のことです。

江原鋳三郎、7日間かくまわれる

深手を負った江原は、山野の浅間神社の森に逃げこみ、村人にかくまわれて7日間を過ごしました。そして5月16日の未明、船橋の海岸から舟で江戸の霊岸島に渡り、17日の夜に四谷の自宅へ戻ったといいます。江原はのちに素六と名を改め、静岡藩の沼津兵学校にかかわり、明治には衆議院議員となり、麻布中学校を開いた教育者として知られるようになります。

撒兵隊のその後:五井へ

4日後の閏4月7日、姉崎にいた第三大隊も、五井・姉ケ崎で新政府軍に敗れます(五井の戦いとは)。8日、新政府軍が真里谷の本陣に迫ると、福田は本陣を捨てて大多喜の方へ退き、撒兵隊はまとまった軍としての動きを終えました。同じころ、請西藩主の林忠崇は藩を出て遊撃隊に加わり、房総を南へ向かっています(遊撃隊と林忠崇の房総転戦とは)。

この戦いが示したもの

撒兵隊は、夜明け前の奇襲で八幡の陣を破り、大砲まで奪いました。その勇ましさは本物でした。それでも一日で崩れたのは、勝ったあとの手がなかったからだと思います。

市川宿を押さえながら、そこを守らずに中山へ戻ってしまう。本陣の福田は遠い真里谷にいて、第三大隊は姉崎、主力は木更津。兵は40キロ以上にわたって散らばり、昼に新政府の援軍が来たとき、撒兵隊に援軍は来ませんでした。そもそも、組むはずの大鳥の部隊はもう市川にいなかったのです。

前の記事の梁田の戦いでは、旧幕府側の油断が敗因でした(梁田の戦いとは)。市川・船橋の撒兵隊は油断していたわけではありません。それでも、甲州勝沼の近藤勇、梁田の古屋佐久左衛門、そして市川・船橋の撒兵隊と、旧幕府側の部隊はそれぞれ別々に動き、別々に敗れていきます。どの戦いにも、全体を見て兵を動かす者がいませんでした。

そしていちばん大きな痛手を受けたのは、戦った兵よりも、市川や船橋に暮らす人々でした。兵の死者は数十人ですが、焼けた家はあわせて1,000軒をこえます。江戸のすぐ隣の宿場町が、戊辰戦争の戦場になった一日でした。

現地を歩く ― 市川・船橋の戦いの史跡

  • 船橋大神宮(意富比神社)(船橋市宮本):撒兵隊第二大隊の拠点で、佐土原藩の砲撃で炎上しました。境内には、砲火で焼けた木から芽吹いたという神木が、しめ縄を張られて残っています
  • 海神念仏堂(船橋市海神):西海神の戦いで亡くなった福岡藩士・小室弥四郎と従卒たちの墓があります。近くには撒兵隊の兵も葬られています
  • 東昌寺(市川市八幡):八幡の戦いで亡くなった津藩士・岡山藩士の墓があります
  • 中山法華経寺(市川市中山)と真間山弘法寺(市川市真間):撒兵隊第一大隊の陣と、新政府軍の本陣が置かれた寺です
  • 鎌ケ谷大仏の墓地(鎌ケ谷市):船橋へ攻めこんだ佐土原藩の戦死者の墓があります

新政府軍の戦死者の墓石は明治19年に千葉県が建て、撒兵隊の兵の墓石は、縁のある人や土地の人々が建てたものです。

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 船橋市郷土資料館『みゅーじあむ・船橋』第7号(平成28年)「戊辰戦争と船橋」
  • 『市川市史』第2巻・第3巻、『船橋市史』近世編
  • Wikipedia「市川・船橋戦争」

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

  • URLをコピーしました!
目次