梁田の戦いとは?900人の旧幕府軍が霧の朝に200人の新政府軍に敗れた理由

霧の朝、梁田宿で朝食中の衝鋒隊を新政府軍が襲う(イラスト)

慶応4年3月9日の朝。下野国の梁田宿(いまの栃木県足利市)は、深い霧に包まれていました。宿場に泊まっていたのは、江戸から北へ向かう旧幕府の脱走兵の部隊、およそ900人。そこへ霧の向こうから、わずか200人ほどの新政府軍が三方から撃ちかけました。旧幕府側は2時間ほどで総崩れとなり、60人をこえる死者を残して逃げ去ります。これが「梁田の戦い」です。

甲州勝沼で近藤勇が敗れた、わずか3日後の戦いでした(甲州勝沼の戦いとは)。この記事では、梁田の戦いがなぜ起き、どの部隊がどれだけの兵と武器で戦い、なぜ4倍以上の兵を持つ側が大敗したのかを、進軍図とイラストで解説します。

目次

梁田の戦いとは?ひとことで言うと

江戸を脱走した旧幕府の歩兵をまとめた古屋佐久左衛門の部隊が、梁田宿に泊まっていたところを、薩摩・長州・大垣の新政府軍に霧の中で奇襲されて大敗した戦いです。梁田戦争とも呼ばれます。

日時慶応4年3月9日(1868年4月1日)の午前7時ごろ〜9時すぎ
場所下野国足利郡梁田(現在の栃木県足利市梁田町)。日光例幣使街道の宿場
旧幕府側古屋佐久左衛門の部隊(当初は「兵武隊」、のちの「衝鋒隊」)。副隊長は今井信郎
新政府側東山道軍の先鋒。薩摩藩・長州藩・大垣藩の混成部隊
兵力(おおよそ)旧幕府側 約900人・大砲7門 対 新政府軍 約200人・火箭砲1門
結果新政府軍の勝利。旧幕府側の死者は60人以上(100人をこえるとする記録も)、新政府軍の死者は3人。旧幕府側は会津へ逃れた

なぜ梁田で戦いが起きたのか

鳥羽・伏見の敗兵の脱走

鳥羽・伏見の戦いで連隊長を失った幕府陸軍の歩兵第11連隊・第12連隊は、江戸に戻ったあとも収まりませんでした(鳥羽伏見の戦いとは)。新政府軍が関東に迫ると、慶応4年2月5日から7日にかけて、見張りの士官を撃って三番町の宿営を脱走し、会津へ向かうと称して北へ進みます。その数は400人とも、1,000人、2,000人ともいわれます。途中で乱暴をはたらきながら北上した脱走兵は、下野の佐久山宿で、追ってきた旧幕府の部隊や宇都宮・烏山・大田原の藩兵とにらみ合いになりました。

古屋佐久左衛門、脱走兵をまとめる

この兵に目をつけたのが、古屋佐久左衛門です。筑後の庄屋の家に生まれ、英学を学んで幕府に仕え、歩兵の訓練にもかかわった人物でした。のちに箱館で敵味方なく負傷者を手当てした医師・高松凌雲の兄でもあります。古屋は佐久山へ出向いて脱走兵の赦免を取りつけ、その指揮官になりました。

2月24日、古屋は370人ほどの兵を率いて武蔵の羽生陣屋(いまの埼玉県羽生市)に入ります。勝海舟は、この部隊が江戸城の明け渡しの妨げになることを心配し、歩兵第6連隊の400人、山砲6門、軍用金2,000両を与えて、信州の鎮撫を命じました。江戸から遠ざけたのです。

近藤勇にも声をかけていた

このとき古屋は、甲州へ向かう近藤勇の鎮撫隊と、上野の彰義隊に、一緒に行こうと誘っています。しかし、どちらからも断られました。3月1日、古屋は自分の兵だけで北へ向かいます。近藤が江戸を出たのと同じ日でした。もしこのとき二つの部隊が手を組んでいたら、勝沼の戦いも梁田の戦いも、違った形になっていたかもしれません。

北へ進むうちに、忍藩に預けられていた脱走兵、江戸から新たに集めた400人、岩鼻陣屋の関東取締出役だった渋谷鷲郎の70人が加わり、部隊は900人をこえる大部隊にふくらみました。

館林で断られ、梁田へ

部隊は、中山道を東へ進んでくる新政府の東山道軍を避けて、館林の城下に泊まろうとしました。ところが新政府軍はすでに斥候で部隊の動きをつかんでおり、館林藩に宿を貸さないよう命じていました。3月8日、部隊は羽生陣屋を出て、ひとまず梁田宿に分かれて泊まります。その夜、宿場では酒宴が開かれていました。

両軍の顔ぶれと兵力

旧幕府側(古屋佐久左衛門の部隊)

役目人物どんな人か
隊長古屋佐久左衛門英学に通じた幕臣。歩兵の訓練にかかわった。弟は医師・高松凌雲
副隊長今井信郎もと京都見廻組。のちに坂本龍馬の暗殺に加わったと語った剣客
軍監柳田勝太郎この戦いで戦死
砲隊長磯野光太郎この戦いで戦死
後軍内田荘司歩兵指図役頭取。戦いのさなかに反撃を指揮した
古屋佐久左衛門
隊長・古屋佐久左衛門
今井信郎
副隊長・今井信郎

新政府軍(東山道軍の先鋒)

部隊隊長人数
薩摩藩四番隊川村与十郎約120人
長州藩の半小隊梨羽才吉約30人
大垣藩の1小隊と築造兵(工兵)長屋益之進約50人
大垣城の天守
大垣城の天守(岐阜県大垣市)。大垣藩は鳥羽・伏見では旧幕府側で戦ったが、のちに新政府側に転じ、東山道軍の先鋒として梁田でも戦った(筆者撮影)

兵力と武器を比べる

旧幕府側新政府軍
兵力約900人約200人
大砲7門。ほかに馬10頭、弾薬100駄火箭砲(ロケット砲)1門
兵の中身幕府陸軍の洋式歩兵が中心。ただし脱走兵の寄せ集めで、規律はゆるかった鳥羽・伏見を勝ち抜いた薩摩・長州の兵と、大垣藩兵
指揮古屋が全体を指揮。宿場に分かれて泊まり、見張りは手薄部隊長3人が話し合い、総督府の「全軍がそろうまで待て」という意向を押して、独断で攻撃に出た

数では旧幕府側が4倍以上。大砲の数でも上回っていました。それでも負けたのは、武器の差ではなく、備えの差でした。

戦いの流れ

梁田の戦いの進軍図
梁田の戦いの進軍図。熊谷を夜に出た新政府軍が利根川を渡って梁田を三方から襲い、敗れた旧幕府側は渡良瀬川を渡って会津へ逃れた(イメージ)

3月8日夜:熊谷の新政府軍、独断で動く

新政府の東山道軍の先鋒は、熊谷まで来ていました。部隊長の間では意見が分かれ、江戸へ急ぐ薩摩の野津兄弟の隊は先に南へ向かいます。熊谷に残った薩摩の川村与十郎、長州の梨羽才吉、大垣の長屋益之進ら200人あまりは、総督府が全軍の到着を待って攻めるつもりだったのを押して、自分たちだけで梁田の部隊を突くことに決めました。

午後8時ごろ、3隊は熊谷を出て、妻沼のあたりで利根川を渡り、太田で敵のようすを探ったうえで、夜のうちに梁田へ向かいます。

3月9日朝:霧の中の包囲

霧の朝、梁田宿で朝食中の衝鋒隊を新政府軍が襲う
霧の朝、朝食の支度中だった旧幕府側の兵に、田の向こうから新政府軍が撃ちかけた(イラスト)

9日の朝、梁田の西2キロほどの上渋垂村に着いた新政府軍は、軍議をひらいて三方から宿場を囲むことにしました。街道の南を長州、街道沿いを大垣、北を薩摩が進みます。途中で旧幕府側の斥候2人を撃ち倒し、宿場に迫りました。その朝は霧が深く、近づく姿は宿場からは見えませんでした。

宿場の旧幕府側は、前方に少しの斥候を出し、村の端に何人かの見張りを立てただけでした。兵の多くは、朝食や出発の支度をしていました。

午前7時:奇襲

午前7時ごろ、街道で見張りに立っていた旧幕府側の兵を薩摩の兵が撃ち、戦いが始まりました。すでに囲みを終えていた新政府軍は、宿場に激しく撃ちこみます。のちに見つかった遺体の中には、飯びつのそばで倒れていた者や、女ものの帯を締めたままの者もいたといいます。前の晩の宴のあと、油断しきっていたことがうかがえます。

多くの兵は東の渡良瀬川へ向かって崩れましたが、一部は大砲を道に引き出して霰弾を撃ち、踏みとどまりました。古屋は、後軍を率いる内田荘司に反撃を命じます。内田の隊は宿場の家々に火を放って敵の横を突き、一時は優位に立ちましたが、薩摩の小隊に後ろを断たれて押し戻されました。

梁田宿で応戦する旧幕府側の歩兵
宿場の中で応戦する旧幕府側の歩兵。霧の向こうから撃ちかける新政府軍に押され、やがて渡良瀬川へ崩れていった(イラスト)

午前9時すぎ:渡良瀬川へ

午前9時すぎ、旧幕府側は多くの遺体を残して梁田を捨て、渡良瀬川の堤で撃ち合いながら川を渡って逃れました。田沼をへて葛生に泊まり、山地を越えて鹿沼へ。さらに北へ進んで、3月22日に会津若松に入ります。

新政府軍の側では、連絡の行き違いから道を間違えた1小隊が戦いに間に合わず、昼ごろには「苦戦している」という誤った知らせで長州の援軍が駆けつけましたが、着いたときには戦いは終わっていました。

戦いのあと

死者の数と、宿場の被害

旧幕府側新政府軍
死者戦場に残された遺体は113(薩摩藩の記録)または104(大垣藩の記録)。会津での法要の記録では62人または63人3人(薩摩2、長州1)
負傷者75〜76人。退く途中、重い傷で動けない14人が味方の手でとどめを刺されたと伝わる6人(薩摩4、大垣2)
戦死した幹部軍監・柳田勝太郎、砲隊長・磯野光太郎ほか―

梁田宿では、寺1つと民家40軒が焼け、住民にも死者1人、負傷者4人が出ました。戦いの翌日、長州の援軍は羽生陣屋に向かって、これを焼き払っています。

会津で「衝鋒隊」となり、越後・信濃へ

会津に入った古屋の部隊は、立て直して「衝鋒隊」と名乗り、越後へ向かいます。そして越後から信濃の飯山へ進み、閏4月には飯山藩の寝返りで再び敗れることになります(飯山戦争とは)。古屋はその後も会津、そして箱館まで戦い続け、箱館で受けた傷がもとで亡くなりました。

この戦いが示したもの

甲州勝沼の記事で、「近藤は故郷で酒を飲みながらのんびり進んだ」という話は小説の描写で、実際の行軍はそうではなかったと書きました。ところが、その3日後の梁田では、本当に「前の晩に酒宴を開き、見張りもろくに置かずに朝を迎えた」部隊が、4分の1以下の敵に崩されています。

旧幕府側は、数でも大砲の数でも上回っていました。兵の多くは、幕府がフランス式に育てた洋式の歩兵です。それでも、宿場に分かれて泊まり、前哨を出さず、霧の朝に油断していれば、一朝で崩れてしまう。逆に新政府軍は、総督府の待てという意向を押してでも、敵の油断を突ける機会を逃しませんでした。武器でも兵の数でもなく、戦う構えの差が勝負を分けた戦いだったといえます。

そしてもう一つ。古屋は出発の前に、近藤勇と彰義隊に一緒に行こうと声をかけていました。三つの部隊は、それぞれ別々に動き、甲州勝沼、梁田、上野と、別々に敗れていきます。旧幕府の側に、ばらばらの力を一つにまとめる者がいなかったことが、この時期の戦いからよく見えてきます。

現地を歩く ― 梁田の戦いの史跡

  • 長福寺(栃木県足利市梁田町):境内に「梁田戦争戦死塚」と、大正13年に衝鋒隊士だった内田万次郎が建てた「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」があります。戦死塚はもとは渡良瀬川の河原にありましたが、洪水で壊れたため移されました
  • 弾痕の松(足利市、梁田公民館):戦いのとき、旅籠「中山楼」の庭先にあって弾を受けた松。いまも弾痕が残ります

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 足利市「梁田戦争をご存知ですか」「梁田戦争関連史跡」
  • Wikipedia「梁田の戦い」「古屋佐久左衛門」

文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。大垣城の写真は筆者撮影

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