榎本藩/本多家2万8千石:本多犬千代 5歳にして夭折により改易廃藩

榎本藩 本多家2万8千石 最後の藩主 本多犬千代
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榎本藩の歩み

寛永八年(1631年)十二月、「本多忠純」は46歳で死去し、跡を養嗣子の「本多政遂」が継ぎました。政遂は寛永十五年(1638年)七月、26歳で早世するとその跡を「本多犬千代」が継いだが、犬千代は寛永十七年(1640年)五月、5歳にして夭折しました。

当然、嗣子がいるはずもなく本多家は無嗣断絶で改易となり、榎本藩も廃藩となりました。

そのあとは、旗本の本多家が治めました

榎本藩は慶長十年(1605年)に成立し、寛永十七年(1640年)に廃藩となりました。三代目の犬千代が五歳で亡くなり、跡継ぎがいなかったためです。

藩庁は下野国都賀郡榎本、現在の栃木県栃木市大平町榎本にありました。石高は当初一万石、元和元年(1615年)の加増後は二万八千石です。

家は、旗本として続きました

本多家が完全に断絶したわけではありません。二代・政遂の弟である本多政朝に五千石が与えられ、大身旗本として下野国都賀郡内を支配しました。

五千石といえば、一万石に満たないので大名ではありませんが、旗本としては最上位に近い格式です。この旗本本多家が幕末まで榎本周辺を治めていたと考えられますが、幕末時点での確認は取れていません。

旗本本多家は、十九世紀のはじめまでは確かに続いています

寛永二十年十二月、政遂の弟で加賀藩家老・本多政重の三男にあたる本多政朝が、下野国都賀郡で五千石を与えられ、旗本寄合席に列しました。『寛政重修諸家譜』をもとにした系譜では、政朝から政方・政法・政淳・政参・政寛・政房と七代が続き、政房は文化十一年に亡くなるまで当主でした。十九世紀のはじめまでは確実に続いていたわけです。ただしその先、幕末の当主が誰だったのかは今回たどれませんでした。なお寄合と交代寄合は別の格ですので、この家を交代寄合と呼んだ資料は確認できていません。

そもそも幕末に「榎本村」はありません

榎本という村名は、明治七年四月に東水代村が改称して生まれたものです。幕末の村名は東水代村でした。周辺は旗本領を軸に他国の藩の飛地が入り組んでおり、たとえば隣の真弓村は関宿藩と旗本の相給です。下都賀郡全体でも幕府領・藩領・旗本領が入りまじっていました。

慶応四年、この一帯は何度も兵に踏まれました

元治元年には天狗党の乱で挙兵した筑波勢が北隣の太平山に屯集し、六月五日には別働隊が栃木宿で軍資金を要求して火を放ち、二百三十七戸が焼けています。慶応三年十一月には出流山で浪士が挙兵しました。そして慶応四年四月、大鳥圭介の隊が小山で新政府軍を破って十八日に栃木へ入り、十九日には鹿沼へ転じ、二十日に宇都宮藩の城下へ入っています。榎本そのものでの戦闘は確認できませんが、周囲では続けて兵が動いていました。大平町榎本の大中寺には、初代藩主・本多忠純の墓が栃木市の指定文化財として残っています。

家康の謀臣・本多正信の一族

榎本藩を開いた本多忠純は、徳川家康の参謀として知られる本多正信の三男です。正信は若いころ三河の一向一揆で家康に背いて国を出たこともありましたが、のちに帰参して家康の最も信頼する相談役となり、「友のように接した」と伝えられるほど重く用いられました。

正信の長男・本多正純は、家康の晩年に駿府で政務を取りしきり、のちに下野の宇都宮十五万石の大名となります。ところが元和八年(1622)、将軍秀忠の暗殺を企てたという「宇都宮釣天井事件」の噂をきっかけに改易されました(実際には釣天井の仕掛けはなかったとされます)。正信の家は、長男の失脚、三男の家の断絶と、江戸の初めのうちに大名としての姿を失っていきました。

加賀百万石の家老となった次男の家

旗本として家を継いだ本多政朝の父・本多政重は、正信の次男で、もっとも変わった経歴の持ち主です。若いころ人を斬って出奔し、宇喜多秀家、福島正則、さらに上杉家の直江兼続の養子となるなど各地を渡り歩いたのち、加賀藩の前田家に迎えられて五万石を与えられました。この家は加賀藩の重臣「加賀八家」の一つとして幕末まで続きます。

明治二年(1869)、加賀藩の執政として藩政改革を進めていた子孫の本多政均(まさちか)は、金沢城内で改革に反発する藩士に襲われて命を落としました。明治四年(1871年)、その旧臣たちが仇を討った事件は、日本で最後の大がかりな仇討ちの一つとして知られています。家康の謀臣の家は、こうして加賀の地で幕末の終わりを迎えたのでした。

天王寺口の217の首と、短気な藩主の最期

本多忠純という人

忠純は大坂夏の陣の天王寺口で217の首を挙げたとされ、その功で1万8千石を加増されました。正室は片桐且元の養女で、実父は且元の弟・貞隆です。ただ、ひどく短気で、家臣の小さな落ち度でもすぐ手討ちにしたと伝わります。死因は家臣による刺殺とされ、『藩翰譜』は「家臣を誅しようとして誤って死んだ」という伝聞を載せています。

加賀から来た養子

政遂と政朝は、加賀藩の本多政重(本多正信の次男)の子です。政遂は慶長18年(1613)生まれで、忠純の実子・忠次が寛永3年(1626)に早世したため、叔父・忠純の婿養子になりました。政遂は浅草の徳本寺に葬られ、以後この寺が本多家代々の葬地になっています。犬千代は3歳で家督を継ぎました。

榎本城跡

本拠の榎本城跡は栃木市大平町真弓にあります。永禄元年(1558)に小山高朝が支城として築いたと伝わり、東西約600m・南北約400mの大きな城で、土塁と堀跡が残ります。なお『藩史総覧』は、元和元年の加増の時点で皆川藩へ移り、榎本藩は廃藩になったとする別の説をとっています。

考察:本多正信の血が支えた家

家康の謀臣・本多正信の家系は、加賀前田家の重臣となった政重の系統と、下野の大名となった忠純の系統に分かれました。短気な当主の死で揺らいだ下野の家を、加賀の兄弟の子が継いで支えた。離れて暮らす一族の結びつきの強さがうかがえます。

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