佐佐木高行 宛
| 原文 |
| 石田及下等士官水夫頭には、私より金少々遣し申候。弐拾金御つかはしになれば可なり。西洋衣がと〃のい申候。彼横笛船では船将にて候得バ、夫ばかりの事してやり度奉存候。何れ御考奉願候。再拝。八月廿五日龍馬再拝。佐々木先生左右 |
| 現代文 |
| 石田(海援隊士:石田英吉)及び下士官水夫頭には私からお金を少々渡しました。あと20金程下されれば良いです。そうすれば西洋の衣装が整います。あの横笛船では船将なのでそれくらいのことはしてやりたいと思います。何れ、お考えの上宜しくお願い致します。8月25日龍馬佐々木先生(佐佐木高行:土佐藩士) |
目次
この手紙について
「石田英吉ら下士官や水夫頭には私から少し金を渡しました。あと二十金ほど出してもらえれば西洋の衣装が整います。横笛船では彼が船将なので、それくらいはしてやりたい」と、海援隊士の装備や待遇について相談する手紙です。八月二十五日付。隊士を気づかう、龍馬の面倒見のよさがよく表れています。
宛先「佐佐木高行」とは
佐佐木高行は土佐藩士で、海援隊を監督する立場にありました。隊の経費は藩とのやり取りで賄われており、佐佐木の裁量が大きかったため、こうした相談が持ちかけられています。
この手紙が書かれたころの龍馬の境遇
海援隊という組織を率い、隊士の給与や装備にまで気を配っていました。西洋式の身なりを整えるのも、近代的な海の集団を作る試みの一環でした。文中の石田英吉は、のちに男爵や県知事となる人物です。
幕末全体の動き(慶応年間)
西洋式の装備や服装が、新しい時代の象徴になりつつありました。海援隊はその最先端を行く集団でした。
土佐藩の当時の動き
海援隊は土佐藩の外郭であり、経費は藩と折衝して賄われていました。龍馬は藩との交渉役も担っていたのです。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

