高松太郎(甥) 宛

高松太郎(甥) 宛

原文
舌代一、大極丸の水夫、人を殺し候由。此事ハ西郷より申来リ候ニ付、小弟宜しく引合致し置候。此度毛利、望月が下坂致し候ニ付、諸事頼置候。何のわけも無事なるべしと奉存候。一、昨日ハ御書拝見又別紙ニも大坂の町ぶれなど─より送りくれ候ニ付、其御地の御もよふ能わかり申候。一、大極丸此頃荷物積込などもすみ候よし。然レバ彼西村源吉方へ頼置候フラフ御受取被成、御引替可被成候。此儀ハ別紙松井周助兄まで送り申候間、御そふだん可被下候。廿五日龍馬太郎殿
現代文
口上書一、大極丸の水夫が人を殺した件。このことは西郷から教えられましたので、私が宜しく掛け合います。この度、毛利(毛利恭介:土佐藩士)、望月(望月清平:土佐藩士)が大阪へ向いましたので諸事宜しくお頼みします。きっと何事もなく済むだろうと思います。一、昨日は手紙を拝見しました。また、別紙の大阪の町ぶれなども送付してくれた手紙でよくわかりました。一、大極丸の荷物の積み込みも済んだようです。西村源吉(大坂役人)方へ頼んだ旗を受け取り、その旗を差し替えて下さい。この話は別紙の松井周助(土佐藩士)まで送ってあるのでご相談して下さい。25日龍馬太郎殿(龍馬の甥)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

甥・高松太郎へ宛てた口上書の形の手紙です。大極丸の水夫が人を殺めた一件について、西郷から知らされたので自分がうまく掛け合うこと、毛利恭介・望月清平の両名が大坂へ向かうので諸事よろしく頼むことなどを、実務的に伝えています。海援隊を率いる者として、こうした厄介ごとの後始末にも自ら当たる龍馬の責任感がうかがえる一通です。

宛先「高松太郎」とはどんな人物か

坂本直
坂本直(高松太郎)(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

龍馬の甥で、海援隊士として龍馬を支えた人物です。のちに坂本直と名乗り、龍馬の跡を継ぎました。身内にして信頼できる右腕でした。

この手紙が書かれたころ

海援隊を率い、隊士の不祥事の処理から諸藩との折衝まで、組織の長として多くの責めを負っていたころの龍馬です。西郷ら要人とも連絡を取り合い、事を穏便に収めようとしていました。倒幕へ向けて政局が緊迫するなか、諸藩の浪士や隊士が各地で活動し、時に事件も起こしていました。組織を束ねる者の器量が、いっそう問われる時代でした。土佐藩公認の海援隊は、その活動の幅を広げる一方で、さまざまな責任も負っていました。龍馬はその重みを一身に引き受け、組織を保っていました。

大極丸の水夫の一件と、大坂へ下る毛利・望月

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この手紙を「続」の十七番に収め、高松太郎あて、慶応三年七月二十五日と推定しています。本文の日付は「廿五日」だけで、年月は宮地の推定です。底本では、原本は京都の霊山歴史館の所蔵とされています。宮地は同年四月二十八日の菅野覚兵衛・高松太郎あての手紙(六十四番)で「西郷」に「吉之助」と注しており、その手紙には「大極丸は後藤庄次郎引受くれ申候」と、大極丸を後藤象二郎が引き受けたことが記されています。

大坂へ下る「毛利」について、高知市の広報誌に載った広谷喜十郎氏の解説は、佐佐木高行の日記の六月二十三日の条に、毛利恭助が同伴して龍馬と中岡慎太郎の意見を聞いた記事があると紹介しています。「フラフ」には宮地が「旗カ」と注しており、大坂の役人とされる西村源吉に頼んでおいた旗を受け取り、付け替えるよう指示しています。水夫が起こした事件の中身は、この手紙からは分かりません。

同じころの長崎—イカルス号事件が起きた夜

丸山の事件 慶応三年(1867)七月六日の夜、長崎の丸山の遊里の近くで、イギリス軍艦イカルス号の水兵二人が斬り殺されました。その翌朝、海援隊の横笛丸が長崎の港を出ていたことから、イギリス側は海援隊の者が犯人ではないかと疑います。公使パークスは土佐藩に強く迫り、事件は藩と英国との外交問題になっていきました。

宛名の高松太郎 宛名の高松太郎は龍馬の甥で、海援隊の隊士です。龍馬は京都にいながら、長崎で起きたこの事件の行方を案じていました。この事件の処理のため、龍馬はまもなく京都を離れて土佐・長崎へと向かうことになります。

甥・高松太郎と、慶応三年七月の土佐藩

龍馬の甥、高松太郎

宛先の高松太郎は、龍馬の長姉・千鶴と高松順蔵の長男で、天保十三年(1842年)の生まれです。龍馬より七つ年下の甥でした。神戸海軍操練所で学んだのち脱藩し、亀山社中の結成にもかかわりました。海援隊では「小野淳輔」と名乗っています。龍馬の死後は箱館府の役人となり、明治四年に龍馬の家名を継いで坂本直と名を改めました。叔父と甥というより、同じ船で働く仲間に近い間柄だったといえます。

陸援隊の承認と、イカルス号事件

この七月、土佐藩は中岡慎太郎の率いる陸援隊を正式に認め、京都の白川の藩邸に隊士を置きました。海の海援隊と陸の陸援隊が、ともに土佐藩の外郭の組織としてそろったことになります。一方で、七月六日に長崎で英国水兵が殺されたイカルス号事件の嫌疑が、海援隊にかかりました。英国公使パークスは、七月二十四日に大坂で老中に強く抗議しています。

京都と大坂を行き来する土佐の人びと

手紙に名の出る毛利恭介や望月清平は、京都と大坂を行き来していた土佐藩士です。六月の薩土盟約ののち、土佐藩の重役たちは大政奉還の建白に向けて動いていました。龍馬は京都にいて、藩の人びとと海援隊の仲間の間をつなぐ役を果たしていました。

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