伊藤助太夫 宛
| 原文 |
| 此度さし出セし曽根拙蔵にハ、大兄よりも色々御咄合可被遣候。そして此男に下の関の唐物やに御申聞、皆々此拙蔵に御引合可被遣候。三吉大夫ニもくハ敷御申被成候得バ、此拙蔵ハ何でも出来ることだけハ御定約仕候間、御国の御為にも、よ程相成、私の国ニもつがふよろしく商談相立可申候と存候。不具。五月廿八日九三先生才谷机下 |
| 現代文 |
| さて、この度そちらに向かわせた小曽根清三郎とは大兄(伊藤助太夫)も色々とお話合い下さい。そして、下関の唐物屋に申し聞かせ、皆々小曽根清三郎とお引き合わせ下さい。三吉大夫(三吉慎蔵)にも詳しく話して下されば、この小曽根は何でも出来ることは確約します。長州のためにもなること間違いなく、私の国(土佐)にも都合が宜く商談なども出来るかと思います。5月28日九三先生(伊藤助太夫)才谷(龍馬変名) |
目次
この手紙について
「向かわせた小曽根清三郎とよく話し合ってほしい。下関の唐物屋にも引き合わせ、三吉慎蔵にも詳しく伝えてくれれば、この男は出来ることは何でも請け合います。長州のためにも、私の国(土佐)のためにも、よい商談がまとまるはずだ」という、交易の仲介を頼む手紙です。五月二十八日付、才谷の署名。長州と土佐の双方に利をもたらす商いを組もうとする、龍馬の実業家ぶりが表れています。
宛先「伊藤助太夫」とは
伊藤助太夫は下関の豪商で、交易の要となる人物でした。龍馬は商談の橋渡しを、この頼れる支援者に託していました。
この手紙が書かれたころの龍馬の境遇
藩と藩、商人と商人を結び、双方に利のある商いを組み立てていました。海援隊は交易を通じて、藩の垣根を少しずつ溶かしていったのです。
幕末全体の動き(慶応年間)
長崎・下関の交易網が、諸藩を経済の面から結びつけていました。商いが、政治的な連携の土台をつくっていたのです。
土佐藩の当時の動き
龍馬は「長州のためにも土佐のためにも」と、藩を越えた互恵の商いを志向しました。海援隊の交易は、そうした発想に貫かれていました。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

