三吉慎蔵 宛
| 原文 |
| 私儀此頃甚多端、別紙福田氏より申上候、御聞取可被遣候。─〇近日出帆の時─〇長久丸ニハ土商会の者壱人さしそへ御在番役所まで御引合仕候と奉存候。百拝。五月十七日龍慎老台下三吉慎蔵様〆直柔 |
| 現代文 |
| 私はこのごろ非常に多忙ですので、別紙にて福田氏(長府藩士)から申し上げます。お聞き取りください。(近日出港の時)長久丸(長府藩船長崎出港の際)には土佐商会の者を一人付き添わせ、在番役所までお引き合わせするつもりです。5月17日龍馬三吉慎蔵様 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「私のことは別紙の福田氏から伝えます。近日出港の長久丸には土佐商会の者を一人差し向け、役所へ引き合わせる」という、船と人の手配を知らせる手紙です。長久丸は長府藩の船。五月十七日付。長府藩と土佐商会(海援隊)が連携して海運を動かしていた様子がわかります。
宛先「三吉慎蔵」とは

三吉慎蔵は長府藩士で、慶応二年の寺田屋事件で槍を振るって龍馬を救った恩人です。命の恩人であると同時に、長府藩との連携の大切な窓口でもありました。
この手紙が書かれたころ
長州(長府)藩の船まで使いながら、諸藩を結ぶ海運を組み立てていた時期です。人と船を差配することが、龍馬の日々の仕事の中心でした。長州と諸藩の海上の連携が進み、倒幕へ向けた物流の体制が整いつつありました。船の差配は、そのまま政局づくりの一部でした。土佐商会が長府藩の船を使うなど、藩を越えた協業が海援隊を軸に広がっていました。龍馬はその結び目に立っていました。
「此頃甚多端」—いろは丸談判のまっただなか
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年五月十七日のものとしています。その二日前の五月十五日、長崎で紀州藩との談判が始まっていました。四月二十三日に海援隊が借りていた伊呂波丸が紀州藩の明光丸とぶつかって沈み、その賠償をめぐる交渉です。「私儀此頃甚多端」、このごろはひどく忙しい、という書き出しは、まさにそのことでしょう。自分では詳しく書けないので、別紙で福田氏から伝えさせると断っています。宮地は福田に「扇馬」と補っていますが、どういう人物かまでは分かりませんでした。
宛先の三吉慎蔵は長府藩の槍の名手で、前の年の正月、伏見の寺田屋で幕吏に囲まれたとき龍馬の隣にいた人です。そのあと龍馬からお龍と妹を託され、下関で二人の暮らしを支えました。談判に追われる長崎から、お龍を預けている下関の友へ—そういう一通です。近く出る長久丸には土佐商会の者を一人乗せて役所に引き合わせると書いていますが、長久丸がどういう船かはわかっていません。
同じころの京都—薩摩と土佐の密約
京都では この手紙の四日後の五月二十一日、京都で薩摩の西郷隆盛・小松帯刀らと、土佐の中岡慎太郎・乾(板垣)退助らが会い、武力による倒幕に向けて土佐の同志が協力することを約束しました。いわゆる薩土密約です。中岡は龍馬と同じ土佐の脱藩浪士で、この年の七月には京都で陸援隊を組織します。
龍馬のまわりでは 龍馬はこのとき長崎で、いろは丸の談判の大詰めを迎えていました。土佐の中にも、中岡や乾のように武力で幕府を倒そうとする流れと、後藤象二郎や龍馬のように話し合いで政権を返させようとする流れの、二つの道が生まれつつありました。
慶応三年五月中旬、長崎の談判と長府の友
長崎での談判の再開
四月のいろは丸沈没ののち、鞆の浦での談判は物別れに終わりました。紀州藩は千両の見舞金や一万両の立て替えを持ち出しましたが、龍馬は応じていません。五月十五日、談判は長崎で再開されます。この手紙は、再開からわずか二日後のものです。
長府藩士・三吉慎蔵
宛先の三吉慎蔵は長府藩士で、寺田屋で龍馬とともに捕吏に立ち向かった人物です。慶応二年六月からは、長府藩の報国隊の軍監を務めていました。龍馬は三吉に、自分にもしものことがあればお龍を頼むと約束しています。三吉はこの約束どおり、お龍と妹を長府の自宅で三か月ほど預かりました。龍馬の死後の慶応四年三月には、お龍を高知の坂本家まで送り届けています。
京都の四侯会議と土佐藩
同じ五月、京都では、島津久光・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂の四侯会議が開かれていました。しかし、兵庫開港と長州の処分をめぐって将軍慶喜に押し切られ、会議は成果を上げられませんでした。容堂は会議を欠席しがちで、六月の初めには土佐へ帰っています。
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