伊藤助太夫 宛
| 原文 |
| 船の争論ハ私思よふ相はこび、長崎ニ出候。土佐人だけハ、皆兄弟の如く必死ニて候間、誠におもしろき事たとふるにものなし。頓首。五月廿七日伊藤様才谷 |
| 現代文 |
| 船の争論は私が思うように運んでいまして、まだ長崎にいます。土佐人だけはみんな兄弟のごとく必死でおりますので実に面白いことです。5月27日伊藤様(伊藤助太夫:下関の豪商)才谷(龍馬の変名) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「船の争論は私の思う通りに運び、まだ長崎にいます。土佐人はみな兄弟のごとく必死で、実に面白い」と、高揚した気分がにじむ手紙です。「船の争論」は、慶応三年(1867)四月に海援隊のいろは丸が紀州藩の船と衝突して沈没した「いろは丸事件」の賠償交渉を指すとみられます。五月二十七日という日付とも符合し、龍馬が長崎で大藩・紀州を相手に交渉を優位に進めていた時期の一通と考えられます。
宛先「伊藤助太夫」とは

伊藤助太夫は下関の豪商・船問屋で、龍馬に宿と資金を提供した有力な支援者です。妻お龍をあずかったことでも知られ、龍馬の西国での活動を物心両面で支えました。
この手紙が書かれたころ
龍馬は万国公法(国際法)を持ち出し、大藩の紀州を相手に賠償を勝ち取ろうとしていました。海援隊の土佐人が結束して事にあたる姿を「兄弟のごとく」と誇らしげに記しています。実力と理屈で大藩と渡り合う、龍馬の真骨頂の場面です。大政奉還の半年ほど前。身分や家格ではなく、論理と交渉で勝負が決まる新しい時代の空気が、この事件にはよく表れています。いろは丸は大洲藩から借りた船で、海援隊は土佐藩の後ろ盾のもとで動いていました。事件は土佐藩の面目もかかった一件で、藩と浪士の距離の近さを物語ります。
「船の争論」は思いどおりに運んだ
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年五月二十七日のものとしています。原本は東京の伊藤家文書です。船の争論は私の思うように運んで長崎に出た、土佐の者だけは皆兄弟のように必死で、実に面白いことはたとえようもない—と、下関の伊藤助太夫に報じています。
この年の四月二十三日、海援隊の伊呂波丸が紀州藩の明光丸とぶつかって沈み、五月十五日から長崎で賠償をめぐる談判が始まっていました。「船の争論」はこれを指すと読むのが自然ですが、宮地は注を付けていません。談判の決着はこの手紙の少し後で、紀州藩が八万三千両余りの支払いに応じ、のちに七万両に減らされます。龍馬は同じ五月の半ば、三吉慎蔵に「此頃甚多端」と忙しさをこぼしていましたが、ここでは勝ちを確信したような弾んだ調子になっています。土佐の者が「兄弟の如く」とわざわざ書いているのは、海援隊が土佐藩の外郭団体になって一か月あまりという時期で、藩の者と隊の者がそろって一つの争いに当たっていたからでしょう。
同じころの京都—兵庫開港の勅許
京都では この手紙の三日前、慶応三年(1867)五月二十四日、将軍慶喜は朝廷での夜を徹した話し合いの末に、兵庫の開港と長州の寛大な処分についての勅許を得ました。四侯会議で薩摩が求めた順序を押し切ったかたちで、慶喜の政治力を見せつける結果となりました。これに危機感を強めた薩摩は、武力で幕府を倒す方向へと傾いていきます。
龍馬のまわりでは 同じころ、長崎ではいろは丸の談判が決着に向かっていました。京都で慶喜が勝ちを収めた一方、長崎では龍馬が御三家の紀州藩から賠償を引き出そうとしていたのです。
慶応三年五月末、談判の決着と「土佐人」
紀州藩が折れた談判
五月十五日に長崎で再開されたいろは丸の談判は、龍馬の思うように運びました。土佐藩の後藤象二郎も談判に加わり、紀州藩はついに償いを支払うことを認めます。償いの額は八万三千両余りとされ、のちに減額されて七万両となりました。この手紙の「思うように運んでいる」という言葉は、その手応えを伝えるものです。
「土佐人だけはみんな兄弟のごとく」
この一文には、土佐藩と手を結んだばかりの龍馬の気持ちがにじみます。数年前まで龍馬は、藩を抜けた浪士でした。それがいまは、後藤象二郎や土佐商会の人びとと肩を並べて、大藩の紀州と渡り合っています。脱藩の罪が許され、海援隊が土佐藩の組織となったことで、龍馬と土佐の人びととの間柄は大きく変わっていました。
同じ月の土佐藩
同じころ京都では、山内容堂が四侯会議に加わり、土佐藩の乾退助が薩摩と討幕の密約を結んでいました。土佐藩は、公武合体の考えと討幕の考えの間で揺れながらも、政局の中心に躍り出ようとしていました。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



