坂本春猪(姪) 宛
| 原文 |
| 猶南町むばにもよろしく御伝へ御たのみ申あげ候。御文難有、然ニ御ちうもんの銀の板うちのかんざしと云ものに、京打、江戸打と云あり、板打中にも色々の通り在此、画図でも御こしなれバ、わかり可申候。然りといへども後便ニ一つさし出し可申と存じ候。御まち、かしこ。三月廿四日 龍呈ふぐの春猪様御前へ龍馬 |
| 現代文 |
| 南町の乳母にも宜しくお伝え下さい。お手紙ありがとうございます。ご注文の銀の板打ちのかんざしというものには、京都産、江戸産などがあり、板打ちと言っても色々とあるので図面でも送ってくれればわかります。けれども、次の便で一つお送りしようと思います。少し待ってて下さい。3月24日龍馬フグの春猪様御前へ龍馬 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「注文のかんざしだが、銀の板打ちにも京都産・江戸産があり、板打ちにも色々あります。図面でも送ってくれれば分かります。ともかく次の便で一つ送るから待っていて。南町の乳母にもよろしく」という、姪へのほほえましい手紙です。三月二十四日付、「フグの春猪様」と愛称で呼びかけています。天下を動かそうとする龍馬の、叔父としての優しい素顔がのぞきます。
宛先「坂本春猪」とは

坂本春猪(さかもと はるい)は龍馬の姪で、長兄・権平の娘です。龍馬は郷里の家族、とりわけ子どもたちをたいそうかわいがりました。
この手紙が書かれたころ
大事を成そうと各地を駆け回る一方で、姪のかんざしの相談にまで細やかに応じていました。公と私の落差の大きさが、いかにも龍馬らしいところです。激動の時代にあっても、志士たちには家族を思う穏やかな時間がありました。龍馬の手紙は、そのことをやさしく伝えてくれます。郷里の坂本家との温かなつながりは、龍馬の心の支えでした。故郷の家族の存在が、遠く離れた地での活動を静かに支えていました。
姪に頼まれた、銀のかんざし
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年三月二十四日のものとしています。注文の銀の板打ちのかんざしというものには、京打と江戸打があり、板打のなかにもいろいろな種類がある、絵図でも寄こしてくれれば分かる、ともかく次の便で一つ送るから待っていてほしい—と、姪の春猪に宛てた手紙です。南町の乳母にもよろしく、と追伸に書いています。
春猪は龍馬の兄・権平の娘で、のちに坂本 清次郎(三好 清明)の妻となりました。慶応三年三月の龍馬は長崎にいて、翌月には海援隊が土佐藩の外郭団体として発足し、四月二十三日には伊呂波丸が沈みます。そのあわただしいさなかに、姪のかんざしの種類をこまごまと書き分けているところに、龍馬の筆まめな一面がよく出ています。宛名の「ふぐの春猪様」は、龍馬が春猪をからかって呼んだあだ名とみられます。
同じころの日本—慶応三年三月
世の中では この手紙の翌日の三月二十五日から、将軍慶喜は大坂城でイギリス・フランス・オランダ・アメリカの公使を次々に引見しました。慶喜は各国に兵庫(神戸)の開港を約束し、外交の主導権が幕府にあることを示そうとします。ところが兵庫の開港は、まだ朝廷の許しを得ていませんでした。この問題がこの後の京都の政局の焦点となります。
龍馬のまわりでは 土佐藩との関係が改まった龍馬は、翌四月に発足する海援隊の準備を進めていました。姪の春猪に宛てたくだけた手紙の裏側で、龍馬の仕事は藩と国の大きな動きに直結し始めていたのです。
慶応三年三月、姪の春猪と坂本家の女たち
龍馬より八つ下の姪
宛先の春猪は、兄・権平の長女で、天保十四年の生まれです。龍馬とは八つ違いで、兄と妹のように親しかったとされます。文久三年に、土佐藩士・鎌田実清の次男の清次郎を婿に迎えました。元治元年には長女の鶴井、慶応元年には次女の兎美が生まれています。かんざしをねだったこの手紙のころ、春猪は二人の幼い娘を育てる若い母でした。
許された脱藩の罪
この年の初め、龍馬は長崎で土佐藩の後藤象二郎と会談し、土佐藩と手を結ぶことになりました。龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪も、このころに許されたとされます。龍馬が高知の家族に気軽に便りを出し、品物を送る約束をしているのは、こうした立場の変化とも無関係ではないでしょう。ただし、これは推測です。
海援隊の発足を前に
翌四月には、龍馬の率いる亀山社中が土佐藩の「海援隊」となります。龍馬はその準備のため、下関の伊藤家と長崎の間を行き来していました。土佐藩の側では、長崎の土佐商会が、隊の資金を受け持つことになります。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



