三吉慎蔵 宛(73通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

三吉慎蔵 宛

原文
大日本吏舌代但本箱とも右借用仕度、此使に御送り被遣候得バ、難有次第奉存候。頓首龍廿二日才吉三吉様
現代文
大日本史(水戸光圀の編纂で幕末志士の原典:尊皇色が強い本)舌代(口で言うべきことを文字にしたもの)。本箱ごとお借りしたいと思います。これをお借りしたいと思います。この使いに預けて送って頂けるとありがたい次第です。22日才谷三吉様(長府藩士)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「『大日本史』を本箱ごと借りたい。この使いに預けて送ってほしい」という、書物の借用を願う短い手紙です。署名は「才吉」で、宮地は「才谷」の書き誤りかとしています。日付は「二十二日」のみで、年月は宮地の推定です。『大日本史』は水戸藩が編んだ尊皇色の強い歴史書で、幕末の志士たちの精神的な原典でした。命を狙われる日々のなかでも、龍馬がこうした学問の書に手を伸ばしていたことがうかがえます。

宛先「三吉慎蔵」とは

三吉慎蔵
三吉慎蔵(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

三吉慎蔵(みよし しんぞう)は長府藩士で、槍術の名手として知られます。慶応二年(1866)の寺田屋事件では、伏見奉行の捕り方に襲われた龍馬を槍を振るって守り、危機から救い出しました。以後も龍馬と固い信頼で結ばれた恩人です。

この手紙が書かれたころ

宮地の推定では慶応三年春、お龍を下関に預けていたころの手紙です。追われる身でありながら、なお思想の書を求める姿に龍馬の一面がのぞきます。尊皇の思想が高まるなか、水戸学や『大日本史』は志士たちの精神的な支柱でした。学問と行動が分かちがたく結びついていた時代です。土佐勤王党の流れをくむ志士たちも尊皇の学に学びました。脱藩浪士となった龍馬も、その精神的な水脈のなかにいました。

本箱ごと借りたいという頼み

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年の春ごろと推定しています。書簡にあるのは「廿二日」だけで、年月は宮地の推定です。「大日本吏」を本箱ごと借りたいので、この使いに持たせてほしい—と、長府藩の三吉慎蔵に頼む一筆です。

宮地は「大日本吏」に「(ママ)」を付けているだけで、何の本なのかは注していません。水戸藩が編んだ『大日本史』の書き誤りと読むのが自然ですが、そこまでは言い切れません。そう読めば、何十冊にもなる大部の歴史書ですから、本箱ごと借りたいという頼み方にも合います。署名は「才吉」で、宮地は「才谷」の書き誤りかとしています。三吉慎蔵は前の年、伏見の寺田屋で龍馬とともに幕吏に囲まれた長府藩の槍の名手で、そのあと下関でお龍の暮らしを支えました。お龍を預けている友の家から、本まで借りようとしていたわけです。

宛名の三吉慎蔵という人

槍の名手 三吉慎蔵は天保二年(1831)に長府藩士の家に生まれ、宝蔵院流の槍術の使い手として知られました。慶応二年(1866)正月、藩命で龍馬に同行して京都へ上り、二十三日の夜、伏見の寺田屋で幕吏に囲まれると、槍を振るって龍馬とともに切り抜けます。手を斬られて動けなくなった龍馬を材木置き場に残し、薩摩藩邸に急を知らせたのも三吉でした。

龍馬に託された人 この一件以来、龍馬は三吉を深く信頼し、慶応三年五月、いろは丸の談判に臨む前には「万一のときはお龍を土佐へ送り届けてほしい」と頼んでいます。龍馬の死後、三吉はその約束を守ってお龍の身の振り方を世話しました。維新後は宮家に仕え、北白川宮家の家令などを務めて、明治三十四年(1901)に亡くなっています。三吉が残した日記は、龍馬の晩年を知る大切な記録となっています。『大日本史』を借りたいというこの頼みも、そうした間柄ならではの一通です。

『大日本史』と龍馬の学び

『大日本史』とは

『大日本史』は、水戸藩主の徳川光圀が明暦三年(1657年)に編纂を始めた歴史書です。天皇を中心に日本の歴史を描いたもので、編纂は水戸藩の事業として明治まで続きました。尊王の考えの拠り所とされ、幕末の志士たちに広く読まれました。龍馬が本箱ごと借りたいと頼んでいるのも、まとまった巻数を読み通したかったからだと考えられます。

学問が苦手だった少年

少年時代の龍馬は、学問が得意ではなかったと伝わります。通っていた塾を早くにやめ、読み書きや武芸の手ほどきをしたのは姉の乙女でした。安政元年ごろには、高知の絵師・河田小龍から、海外の事情や船の大切さを聞いています。のちの龍馬は『万国公法』を重んじ、海援隊で出版しようとしました。本を求めるこの手紙には、学びを重ねていった龍馬の姿がのぞきます。

長府での本の貸し借り

宛先の三吉慎蔵は長府藩士で、龍馬とは寺田屋をともにくぐり抜けた間柄です。龍馬はこの年、下関の伊藤家に部屋を借りており、長府藩の人びとと日常的に行き来していました。本の貸し借りは、そうした近所づきあいの一つでした。

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