お登勢 宛
| 原文 |
| 此さし出候帯屋も助たしかなる人なれバ、皆々様御返じ何なりとも御なし可被下候。私がおり候所ハ、下の関東本陳伊藤助太夫右の所ニて候御返じ御こし。私しの名ハ、薩州才谷梅太郎と御あてニて御こし。 |
| 現代文 |
| これを差し出した帯屋も確かな人なので、みなさんお返事など何なりと申しつけて下さい。私がいる場所は、下関本陣の伊藤助太夫宅です。ここ宛に早々にお返事下さい。私の名前は薩摩藩の才谷梅太郎宛にしておいて下さい。 |
目次
この手紙について
「使いの帯屋も確かな人なので返事を託してよい。私は下関の伊藤助太夫宅にいます。返事は『薩州 才谷梅太郎』宛で送ってほしい」という連絡です。追われる身の龍馬が、変名と信頼できる宿を使い分けて連絡を取っていた様子がよくわかります。年は不明ですが、下関を拠点にしていた慶応年間のものとみられます。
宛先「お登勢」とは
お登勢(おとせ)は、京都伏見の旅館寺田屋の女将です。龍馬を長くかくまい、妻となるお龍を養女同然に世話した恩人でした。寺田屋は、龍馬が幕吏に襲われた「寺田屋事件」の舞台でもあります。
この手紙が書かれたころの龍馬の境遇
幕吏に命を狙われ、変名「才谷梅太郎」を用い、薩摩藩士を装って身を隠していた時期です。信頼できる宿と人が、そのまま命綱でした。
幕末全体の動き(慶応年間)
倒幕をめざす志士たちは常に幕府の探索にさらされ、身を隠しながら活動していました。宿の女将のような市井の人々の支えが、彼らを陰で守っていました。
土佐藩の当時の動き
脱藩浪士の龍馬は土佐藩の保護を受けられず、薩摩藩の庇護を頼りにしていました。藩を越えた人のつながりが、龍馬の身を支えていたのです。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

