下手渡藩/立花家1万石:立花種恭 奥羽戦争では新政府軍側で仙台藩と戦った下手渡藩

下手渡藩 立花家1万石 最後の藩主 立花種恭
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下手渡藩の歩み

幕末の藩主・立花種恭は、慶応四年(1868年)一月十日、幕府の老中格・会計総裁に任じられます。しかしそのときにはすでに戊辰戦争が始まり、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗れたあとでした。この混乱の中で種恭はその職を辞します。

三月二日、種恭は九州の三池陣屋にいた藩士たちの意見を受け入れて新政府側につくと決め、十三日にいったん下手渡へ戻ってから、江戸をへて新政府のもとへ向かいます。ところが奥州の国元では、家老の屋山外記が藩を代表して奥羽越列藩同盟に署名していました。殿様と国元が正反対の道を選んでいたわけです。のちに藩が新政府についたことが分かり、同盟の盟主である仙台藩を怒らせることになりました。

五月十五日、新政府は、種恭が幕府の若年寄・老中格だった責任を問題にしつつも、江戸で幕府方の旗本たちに刀を収めるよう説いて回っていた働きを認め、罪を許しました。しかし八月十四日、仙台藩の兵200人が下手渡の領内に攻め込みます。十六日には陣屋が焼き払われ、領内は、仙台兵と、下手渡藩兵・助けに来た柳河藩兵とがぶつかる戦場になりました。

藩の役所を焼かれた下手渡藩は、九月に本拠を九州の三池へ移し、下手渡藩はここで終わります。ただ、下手渡の旧領はその後も三池藩の飛び地として残りました。いま下手渡には、旧藩士たちが建てた「懐古の碑」が残っています。

領地が二つに分かれていたことが、分裂の種でした

下手渡藩は文化三年、筑後三池の立花家が政争に敗れて陸奥伊達郡へ移されたことで立ちました。ところが嘉永三年、領地の一部およそ五千石が筑後三池郡内へ移されます。これで藩は陸奥と筑後に分かれて知行することになり、のちに藩論が割れる下地ができました。

藩主は官軍、国許は同盟

最後の藩主・立花種恭は天保七年の生まれで、嘉永二年に十四歳で家督を継ぎ、文久二年に大番頭、文久三年に若年寄となりました。会計総裁と老中格に就いたのは慶応四年一月です(慶応三年とする資料もあります)。慶応四年三月二日、種恭は三池の藩士の主張を容れて官軍側につくことを決めますが、国許では家老の屋山外記が下手渡藩を代表して奥羽越列藩同盟に調印しました。五月十五日、種恭は若年寄・老中格だった責任を問われながらも、江戸で佐幕派の旗本を説得していたことが評価されて許されています。

八月、陣屋が焼けました

八月十四日に仙台藩の兵二百名が領内へ入り、十六日に陣屋が失われました。柳河藩の兵が駆けつけ、領内は戦場になっています。この焼失については、仙台藩の攻撃によるものとする説明と、藩が自ら火をつけて退いたとする説明があります。藩庁を失った下手渡藩は九月に三池へ移って廃藩となり、下手渡の旧領は分領地として三池藩に残されました。

最後の藩主は、学習院の初代院長になりました

立花種恭は明治二年に三池藩知事となり、明治四年の廃藩置県で職を解かれました。そして明治十年十月十七日、華族学校の初代院長に就いています。この学校は開業式の日に明治天皇から学習院の名を与えられたもので、種恭は設立の中心にいた人物でした。院長を辞めたのは明治十七年五月で、同じ年の七月に子爵となり、明治二十三年からは貴族院議員も務めています。陣屋の跡は昭和四十三年十二月に伊達市の史跡に指定され、石垣が一部残っています。明治三十五年に旧藩士たちが立てた「懐古の碑」も、この地にあります。

下手渡藩主・立花種恭と幕府の最後

老中格となった小藩の藩主 下手渡藩(立花家一万石)の藩主・立花種恭は、立花宗茂の弟の家系で、筑後柳河の立花家と同族の小藩の藩主でありながら、幕末の幕府で重い役職を務めました。若年寄を経て、慶応四年(1868)正月には老中格・会計総裁に任じられています。幕府が倒れる直前の、最後の幕閣の一人でした。

陸奥の陣屋と戊辰戦争 ところが戊辰戦争では、種恭は早くに新政府に恭順しました。そのため、奥羽越列藩同盟に加わった仙台藩の兵によって、陸奥の下手渡の陣屋は焼かれたと伝えられます。藩はその後、先祖の地にあたる筑後の三池へ戻され、三池藩となりました。

失脚した若年寄と、三池炭鉱の始まり

三池藩の成り立ち

立花宗茂の弟・高橋直次が慶長19年(1614)に常陸で5千石の旗本となり、元和7年(1621)に子の種次が旧領の三池郡などを与えられて1万石の大名になりました。立花家は外様で、三池藩は柳河藩の支藩ではありません。

下手渡へ移された理由

下手渡へ移されたのは、立花種周の失脚が原因です。種周は寛政の改革に加わった若年寄で、蝦夷地の取締を任され、近藤重蔵の千島調査を後押ししました。大奥改革をめぐる争いで松平定信らと対立し、文化2年(1805)に若年寄を解かれ、家督を譲らされて蟄居を命じられたとされます。種周は亡くなる直前に下手渡へ移り、文化6年にそこで没しました。

三池の石炭

藩の飛び地として戻った三池郡の領地では、嘉永6年(1853)に生山の炭坑が開かれました。大牟田市の年表では「三池藩が開坑」とされています。これがのちの三池炭鉱(1997年閉山)につながる流れの一つです。最後の藩主・立花種恭は学習院長を務め、嘉納治五郎が部下だったといわれます。

考察:奥州の小藩と九州の炭鉱

奥州の山あいに移された藩が、九州に残した飛び地で石炭を掘り始めた。下手渡藩の歴史は、二つの遠く離れた土地にまたがっています。日本の近代産業の源流の一つが、この小藩の飛び地にあったというのは興味深い点です。

下手渡藩をもっと詳しく

少年藩主・種善の下手渡入り

初代藩主の立花種善は寛政6年(1794年)1月19日、三池藩主・立花種周の四男として生まれました。兄の種徳らが早くに亡くなったため世子となり、文化2年(1805年)12月27日、父の種周が若年寄の職を追われて隠居と蟄居を命じられると、まだ少年のうちに家督を継ぎます。種周は大奥の改革をめぐる争いで、将軍徳川家斉とその父・一橋治済の側に立ち、松平信明らの側に敗れたのでした。

翌年の文化3年(1806年)6月5日、幕府の機密を漏らした責任を問われる形で、藩は陸奥国伊達郡の下手渡へ移されました。数え年で13歳の藩主です。種善は下手渡に新しく陣屋を築いて藩庁とし、藩の決まりを「三九か条の御条目」として定めました。よい政治を行った藩主として伝わっています。三池の旧領は、このあと幕府の領地となりました。

種善は天保3年(1832年)に亡くなるまで、26年あまり下手渡を治めました。父の種周も下手渡に移り住み、文化6年(1809年)10月15日に66歳でこの地で世を去っています。

天保の飢饉と2代・種温

2代の種温は種善の長男で、父の死の翌年、天保4年(1833年)3月18日に家督を継ぎました。藩主となったのは、ちょうど天保の大飢饉が東北を襲った時期です。種温は蓄えていた米を領民に開放し、年貢を減らすなどして飢饉に対応しました。しかし嘉永2年(1849年)2月12日に急死します。

種温には跡を継ぐ男子がおらず、種道の長男だった種恭が養子となって家督を継ぎました。種道については、種温の弟とする資料と、種周の五男、つまり種温の叔父とする資料があります。どちらにしても、種恭は種周の血を引く一族として下手渡の家を継いだことになります。

生山と平野山の境界争い

下手渡藩の飛び地となった三池郡では、嘉永6年(1853年)に開かれた生山の炭坑と、隣りあう平野山の炭坑との間で、境界をめぐる争いが起こりました。この争いは明治に入っても続き、明治5年(1872年)ごろに再び持ち上がって、県が争いをやめるよう命じています。

明治4年(1871年)には旧藩の士族が石炭の採掘を願い出ましたが、同じ年に三池藩は三池県となり、11月には久留米・柳河・三池の3県が廃止されて三潴県にまとめられました。明治6年(1873年)には炭坑一帯が官山、つまり国の経営する鉱山となり、同じ年に三潴県の囚人を三池の炭山で働かせることが始まっています。藩の手で開かれた炭坑は、こうして国の手に移っていきました。

講道館の扁額

明治の種恭は、学習院の院長のほかにも、華族会館の副幹事や学務局長、宮内省の御用掛、同じく宮内省の爵位局主事などを務めました。学習院で種恭の部下だったのが、柔道の嘉納治五郎です。嘉納の道場には、種恭が筆をとった「講道館」の扁額が掲げられたと伝わります。種恭は明治38年(1905年)に70歳で亡くなるまで、貴族院の子爵議員を務めました。

軍役の目安と、慶応4年の戦い

慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定(案)では、1万石の大名が出す人数は235人とされていました。十人単位に丸めると、1万石の下手渡藩の動員兵力はおよそ240人が目安です。ただしこの規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。

しかも嘉永3年(1850年)からは領地のおよそ半分が筑後の三池郡に移っていたため、奥州の下手渡に置かれた力はさらに限られていました。慶応4年(1868年)8月に攻め込んだ仙台藩の兵は200人で、1万石の藩の目安とほぼ同じ規模です。下手渡藩だけで守りきるのは難しく、同族の柳河藩の兵が駆けつけることになりました。

場所・アクセス・地図

下手渡陣屋跡
〒960-0903 福島県伊達市月舘町下手渡天平

参考資料:Wikipedia日本語版「下手渡藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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