| 五十嵐伊織 | |||
| 職名 | 函館新選組第一分隊 | ||
| 出身 | 会津 | ||
| 終焉場所 | 函館弁天台場 | ||
| 終焉方法 | 降伏 | ||
明治2年に青山次郎らとともに入隊し函館弁天台場の攻防戦にて負傷します。その弁天台場にて降伏し豊津藩に引き渡されます。
以後の消息は不明です。
目次
五十嵐伊織をもっと深く——最後の三か月に入隊し、台場で撃たれた
会津の出です。鶴ヶ城が一か月の籠城の末に開城したのは明治元年九月。故郷を失った直後に、この人は海を渡っています。
入隊は明治二年。青山次郎ら一党とともに新選組へ加わりました。函館新選組第一分隊。そして弁天台場の攻防戦で負傷しています。
三か月で終わった
明治二年に入隊し、五月十五日に降伏しています。隊士でいられた期間は、長く見ても三か月ほどです。
新選組といえば壬生浪士組から池田屋、鳥羽伏見、甲州勝沼と続く七年の物語で語られます。だがこの人が知っている新選組は、蝦夷地の砲台に籠もって撃たれ続けた最後の数か月だけでした。近藤勇も沖田総司も、会ったことがありません。
撃たれた場所
弁天台場は箱館湾の入口を扼する砲台で、武田斐三郎の設計になります。石垣の高さは十一メートルほど、砲眼十五門。海に向けては強かったが、背後の市街を取られると孤立する構造でした。
明治二年五月、まさにそうなりました。箱館市中が新政府軍に占領され、台場は海から艦砲射撃を受け、陸からは上陸部隊に攻められました。兵糧も尽きます。五十嵐伊織が負傷したのは、この戦いのなかです。
五月十一日、土方歳三が救援に向かおうとして一本木関門で戦死しました。台場の側から見れば、助けは来ないと分かった日でした。四日後、永井尚志以下二百四十名が降伏します。
豊前へ送られた
降伏後、五十嵐伊織は豊津藩へ引き渡されました。会津から蝦夷地へ、そして九州へ。以後の消息は不明です。
負けた側の若い兵が、故郷でも戦地でもない土地に預けられて消えていきます。斗南藩へ送られた会津の人々と同じ構図が、ここにもあります。
新選組隊士全456名情報

